#5:第3日 (5) 歌声の響く海

 ほっとして食事を終えたのはいいが、帰りがけにとんでもないニュースを聞かされた。10時からインターナショナル・ラウンジで、マルーシャの特別リサイタルをやるというのだ!

「あら、面白そう! 昨夜はバンドの歌手が病気で休みだったので、あまり盛り上がらなかったのよね。オペラ歌手なの? 『フィガロの結婚』とか歌うのかしら」

 エレインが、おそらく唯一知っているオペラのタイトルを得意気に言う。しかもオペラなんて聴きに行ったことがないくせに。しかし、船内新聞や掲示板ブレティン・ボードには特別リサイタルなんていう案内はなかったはずだ。急に決まったということだろうか。

 何にせよ、さすがにこれは俺も聴きに行った方がいいだろう。エレインはグレイス、ルーシーと今からラウンジに行くらしいが、俺はいったん船室キャビンに戻って休憩すると言っておいた。隠してある宝石がちゃんとあることを確かめる。無事だったので、事務長パーサーのところへコイン・セレモニーの話を聞きに行くことにした。事務長パーサーは俺が行っても2回に1回くらいの割合でいないから困る。今回はいた。

「ああ、あのコインのことですか」

 事務長パーサーは事務机の抽斗から1枚の大きな写真を取り出してきた。白い枠の中に2枚のコインが、1枚は表、もう1枚は裏にしてはめ込まれていて、その上に"SPIRIT OF LONDON"の文字、下には"1972"。

「スピリット・オヴ・ロンドンというのはこの船の元の名前でして、1972というのは竣工した年です。イタリアの造船所で造られましたので、このとおりイタリアの500リレ・コインが2枚使われました。表はルネッサンスの女性像、裏はコロンブスの船団です。先々週の航海で、アカプルコに着いた日に盗難に遭ったのが発覚しまして。ガラスを切り取って、コインを盗んだ後に、丸く切り抜いたコインの写真を置いて、またガラスをはめておくという凝ったことをやられましたので、発見が遅れました。同じコインを取り寄せて修復しようと計画しているのですが、実際のコイン・セレモニーに使われたわけでもないコインを飾るのもどうかという意見もありまして、本社の最終的な判断待ちという状態です」

「同じコインを取り寄せて……ということは、これは特別なコインじゃないのか」

「はい、イタリアで普通に流通している銀貨です。コイン・セレモニーに使われたという印があるわけでもありませんので、せいぜいコレクターが自己満足のために盗んだのかと思われます」

「他の汽船シップでも盗まれたことがあるんだろうか」

「さあて、私が知る限りですが、プリンセス・クルーズの船ではそういう事例はないと思います」

「そうか、解った、ありがとう。なに、夕方にそういう噂を聞いたんで、ちょっと気になって聞きに来ただけなんだ。俺の爺さんが珍しいコインを集めてたのを見せてもらったことがあってね」

「どうしたしまして。私もお尋ねに来られるお客様が意外に多いので、ちょっとびっくりしているところですよ。こんなコインの存在は船舶関係者くらいしか知らないと思ってましたからね」

 事務長パーサーは愛想よく笑って、写真を抽斗に戻した。ロビーを出ながら考える。このコインがターゲットである可能性はあるだろうか? 盗んだのはコレクターだろうと言っていたが、もしそうならそいつが持って帰ってしまったに違いない。そいつがアカプルコにでも住んでいない限り、ステージの期限までに入手することはほとんど不可能だろう。アカプルコのコイン・ショップに売ったということも考えられるが、もしそうだとしてもアカプルコに着くまで全く調査ができないじゃないか。

 あるいはこのことがターゲットのヒントであるのかもしれないが……今は全く何も思い付かない。ただ、これが裁定者アービターの言っていた“ある特定の情報”であることを望むばかりだ。これ以外には何も判っていないからな。

 また船室キャビンに戻って、しばらく考え事をしてから、9時50分くらいにラウンジへ行く。予想以上に混雑していて、立ち見しかできなさそうだ。エレインたちがどこにいるかも判らない。舞台ではまだバンドが演奏を続けている。俺の知らない曲だが、メキシカンのようでもあるし、南米の曲のようでもある。まあ、この船に乗っている合衆国の連中にとってはどちらでもよくて、要は南国を思わせる明るい曲調なら何だって楽しめるのだろう。

 肝心のアンナ……いや違った、マルーシャは既に舞台の左の、ピアノの横に例のアヴァターと並んで座って、音楽のリズムに合わせて身体を揺らしている。しかも、何てこった! オックスフォードのステージでは見たこともないような、優しい笑顔を浮かべているじゃないか。このステージでは性格も違うってのか? “相席お断り”は律儀に継続してるらしいのに。

 そのうちに音楽が終わり、大きな拍手が湧き起こる。司会がマイクを持って立ち上がり、舞台の中央に立つ。コメディアンのような顔をした男だった。

「ありがとうございました! 演奏はもう皆さんおなじみの、マーティー・ロメルとマーリンズでした。リーダーのマーティーにもう一度大きな拍手を! さて、ここからは本日の特別プログラムです。このサン・プリンセス号にご乗船のお客様で、ウクライナ出身のあの有名なオペラ歌手、ミス・マルーシャのリサイタルです! それではみなさまにご紹介しましょう、ミス・マルーシャです! どうぞ舞台の真ん中へお越し下さい」

 それまでピアノの横におとなしく座っていたマルーシャが、司会に紹介されて立ち上がり、舞台の中央に立つ。相変わらず優雅な歩きぶりで、今夜はあの胸の大きさを一段と強調するようなダーク・ブルーのナイト・ドレスを着ている。ラウンジの中は、船中に響き渡りそうな大きな拍手の嵐だ。司会は“あの有名な”と言ったが、どの程度有名なのかが俺には全く判らない。しかしこの様子だと、ここにいる客のほとんどは彼女を知っているような感じだ。

 だが、おかしいじゃないか。朝食の時のウェイターはあの女がマルーシャだということを知らなかったようだし、一緒に観光に行った4人組のうち、マルーシャをはっきりと知っていたのはベス一人だった。その他の客でも、有名なオペラ歌手が乗っているなどと話し合っている奴らは見たことがない。一体、どの程度“有名”なんだ。

「ご来場のみなさま、初めまして。いいえ、そうではありませんね。もう3日もみなさまと一緒にこの船の上で過ごしているんですもの。でも、改めまして、ご挨拶申し上げます。今夜は船長キャプテンから特別にご依頼を頂きまして、この舞台に立つことにいたしました。みなさまの前で唄うことができて、本当に光栄に感じています」

 これがあの、氷の人形アイス・ドールのように見えた“無名美人”の挨拶とは思えないほど甘く優しい言葉遣いだった。もちろん英語でしゃべっていて、しかしどこかしらロシアか東欧系の訛りがあって、それがまたエクゾティックさを感じさせるのだ。しかし、俺は彼女が完璧なキングズ・イングリッシュをしゃべれるのを知っている。言葉だけでなく、訛りさえも自由に扱えるってのか。

「さて、みなさまのために唄うよう依頼されたのですが、なにぶん特に用意もございませんし、この船の上ではオペラの曲よりも、みなさまのお耳になじんだポップ・ソングがふさわしいと思いましたので、そのような歌をいくつか唄うことにいたします。最初は……船旅クルーズの初日の晩に、歌手のシルヴィアさんがとても素晴らしい歌を聴かせて下さいました。その中の1曲で皆さんにとてもご好評でした"VOLAREヴォラーレ"を私も唄いたくなりました。とはいえ、合衆国のアレンジがあるのを私は存じませんでしたので、原曲の、カンツォーネをそのまま唄うことにいたします」

 そう言ってマルーシャは舞台の左を手で示した。アヴァターがピアノの前に座っている。

「ピアノを弾きますのは妹のティーラです。それでは……」

 ティーラ? 今、ティーラと言ったか? なるほど、それがあのアヴァターの名前か。そのティーラの細い手がピアノの鍵盤の上で踊り、静かなメロディーを奏で始める。"VOLAREヴォラーレ"は古い曲だが、もはや名曲スタンダードなので俺だって知っている。ただし、俺が知っているのはアレンジで、原曲のカンツォーネは知らない。いずれにしろ、最初はこういうおとなしい曲調なのだろう。そしてマルーシャの独唱が始まった途端に、会場の空気が変わった――


  ("VOLAREヴォラーレ"、歌詞を省略(※))


 ――なんてこったグレイト・スコット! こりゃ本物だ。最初のフレーズを聴いただけで、体中がびりびりときた。もちろん歌詞はイタリア語で、どういう意味かも解らないのだが、心の中が洗われて透明になっていくようだった。まるで青い空しかない世界に放り込まれて、漂っているかのような……

 はっと気が付いて周りの客の反応を見てみたが、みんな陶然としてマルーシャの歌に聴き入っている。ウェイターまでが仕事を忘れて立ち止まってしまっている。歌詞がサビフックのところにさしかかっても、客は誰も唱和しようとしない。彼女の歌声に、割って入る隙がないのだ。それほど完璧な歌唱力だった。一番前の席に座っている小さい女の子なんか、口を開けて聞き惚れてるじゃないか。

 それにピアノも素晴らしい。あれって実はアヴァターだけど、中身はマルーシャの身内なんだろ? 俺の身内なんて、何の特技もない一般市民だぜ。競争者コンテスタント裁定者アービターのペアで、どれだけ差を付けられてんだよ。

 そして歌が終わっても、誰も拍手をしなかった。みんな感動で身体が固まってしまってるのだ。ようやく、一番前の、あの女の子が小さな拍手を始めた。途端に俺の腕も動くようになり、思わず拍手してしまう。するとみんな目が覚めたかのように拍手を始め、あっという間に会場が大拍手と大声援に包まれた。見張りの一等航海士が、何事があったのかと驚いてラウンジの入口に見に来たくらいだ。

 マルーシャが優雅に頭を下げる。笑顔でマイクを持って、次の言葉を発したそうにしているのだが、みんな拍手を止めようとしない。3分ほども拍手が続いて、それが終わりかけても会場はまだざわついていたが、マルーシャが話し始めると、潮が引くように静かになっていった。


(※)注:"VOLAREヴォラーレ"の歌詞は著作権の保護期間内であるため、ここに掲載できません。ご了承ください。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る