#5:第3日 (6) 美女のメッセージ

「ありがとうございました。私、これほどお客様に近い場所で唄うのは初めてのことですので、大変緊張しました……さて、今の"VOLAREヴォラーレ"はイタリアの曲でしたが、この汽船シップはメキシコの海を航行しておりますので、次はメキシコの歌を唄いましょう。"CIELITOシエリト LINDOリンド"などいかがでしょうか? 世界中で有名で、おそらくみなさまもご存じのことと思いますので、コーラスの部分では、ぜひみなさまもご唱和下さい……その前に、みなさまとコーラスの練習をいたしましょうか。歌詞は……」

 コーラスのフレーズを唄ったが、これは先ほどとは違ってまるでポップ・ソングのような明るい唄い方だった。それではご一緒に、とマルーシャがリズムを取り、観客にコーラスを促す。しかし、観客の方に遠慮があるのは、先ほどの歌声に圧倒されたからだろう。

 もう一度コーラスの練習をしてから、ティーラが演奏を始める。ピアノなのに、ギターのような切れのいい音だった。そしてマルーシャが唄い出す。だが……先ほどの叙情的な唄い方とは、まるで違った! 情熱的で、聴いているだけで心の中が熱くなり、今にも身体が動き出しそうになるのだ。


  ("CIELITOシエリト LINDOリンド"、歌詞を省略(※))


 マルーシャが手を指揮者のように振って、観客の唱和を促す。もちろん、ラウンジ中の客が大合唱する。舞台の袖に立っている船長キャプテンも、マルーシャの後ろで控えているバンドのメンバーすらも、一緒になって声を出す。口を閉じていたのはおそらく俺くらいだろう。マルーシャのペースに乗せられないように、無理して我慢しただけだが。コーラスの声は繰り返す度に大きくなっていく。俺の前に座っている若い女など、笑顔で涙を流しながら声を張り上げている。

 最後のフレーズをマルーシャが情感たっぷりに唄い上げると、間髪を置かずラウンジ全体が拍手に包まれた。指笛を鳴らしている奴までいる。"VOLAREヴォラーレ"を唄った後とまるで違う雰囲気じゃないか! たった2曲で観客の気持ちまでコントロールしてしまっている。

 そしてマルーシャは、次は合衆国の曲を、と言って"STRANGER IN THE NIGHT"を唄った。終わった後、俺の斜め前にいた老人が、フランク・シナトラが唄っているのと同じくらい感動した、と興奮気味に周りの友人たちと話し合っている。まあ、この曲を聴いたことがない俺ですら“見知らぬ男女の恋”の情景が思い浮かんで涙が出そうになったんだから、恐ろしいほどの歌唱力であることは間違いない。それからもう一度メキシコの曲を、とマルーシャは言い、"LA CUCARACHAクカラチャ"を選んだ。唄う前に、

「クカラチャというのは英語でゴキブリコックローチのことですね。私、もちろんゴキブリは大嫌いですが、この曲の中に出て来るクカラチャならまだ我慢できそうですわ」

 と観客の軽い笑いを誘った。もちろん、ラウンジの中は既に全員がマルーシャのペースに乗せられている。唄い出すと、それこそ踊り出したくなるような軽快な曲調で、一番前のあの女の子など、本当に踊り出してしまったくらいだ。そしてその子を見るマルーシャの目の優しいこと。“無名美人”の時の冷たい表情とは天地の差で、どっちが本当の性格なんだか判りゃしない。

 唄い終わってまた大きな拍手を受けた後、マルーシャがまた語り始める。

「ありがとうございました。みなさまにこれほど喜んでいただけて、私も大変嬉しく思います。では、最後にもう1曲唄いたいと思いますが、今度はみなさまから何かリクエストがありましたら……」

 言い終わる前にいくつもの手が挙がった。みんな遠慮がないな。エレインが手を挙げてないことを祈るよ。挙がった手の数が多すぎて、マルーシャは困惑していたようだが、一番前にいた例の女の子の手が挙がっているのを見つけて、その子のところまで行ってしゃがみ込んでマイクを向けた。

「"THIS OLD MAN"」

 会場がざわつく。まあ、そうなるだろう。観客は全員知ってるだろうが、あれは童謡だからな。ウクライナのオペラ歌手に唄わせるような曲じゃないし、それ以前にマルーシャが知っているかどうかが問題だ。リクエストした子の両親も困っているようで、子供に向かって何か言っているが、マルーシャがマイクのスイッチを切ったらしく、俺のように舞台から遠くにいる客には“何か言っている”ということしか判らない。たぶん、もっと違う曲にしろと説得しているのだろう。

 しかし、マルーシャは親に声をかけて女の子を自分のそばに呼び寄せると、何か話し始めた。そしてハミングを始めたが、それがかろうじて"THIS OLD MAN"のメロディであることが、俺にも聞き取れた! 女の子は大声で「イエス!」と叫び、喜んで何度もジャンプしている。待て待て待て、なぜウクライナのオペラ歌手が"THIS OLD MAN"を知ってるんだ? たとえ連合王国へ留学していたとして、キングズ・イングリッシュはまだしも、童謡まで学習するか? 一体、マルーシャというのは何者なんだ?

「OK、この少女のリクエストが、幸運にも私の知っている曲でしたので、唄うことにいたします。お嬢ちゃんマイ・ガール、名前は……メリッサ? OK、では、メリッサも私と一緒に唄いましょう。こっちへいらっしゃい……」

 そう言ってマルーシャは女の子を舞台の真ん中へ連れて行き、それから司会に何か耳打ちする。司会は慌てて舞台裏へ飛んでいった。それからマルーシャはピアノの所に行ってティーラと会話していたが、戻ってきながらマイクに向かって言った。

「残念ながらティーラはメロディーを知りませんでしたので、ピアノの伴奏なしでメリッサと一緒に唄うことにいたします。今、司会の方が、メリッサが立つ台を探しに……」

 言い終わらないうちに、司会が大きな黄色い箱を持って戻ってきた。マルーシャは女の子をその上に立たせると、またマイクを切って女の子と何か会話した。たぶんキー合わせでもしたのだろう。それから観客に手拍子ビート・タイムを要求し、前奏をハミングしてから、一つのマイクで女の子と一緒に唄い始めた。


   "This old man, he played one,

   he played knick-knack on his drum;

   With a knick-knack paddywhack,

   give the dog a bone,

   this old man came rolling home."


 唄っている時の女の子の嬉しそうな顔に、観客が釣り込まれているのがよく判る。あの子にとっては一生物いっしょうものだぜ、この経験は。それどころか、この場にいる乗客にとっても、二度とないような楽しい経験だろう。まあ、次の土曜日でこの世界は終わってしまうはずだけどな。

 それにしても、あの女の子はよく歌詞を憶えている。俺なんか4番以降はうろ覚えだっていうのに。よっぽど好きなんだろうな。周りの観客にも、小さい声で口ずさんでいる奴が大勢いる。いやそれよりも、マルーシャがこの曲の歌詞を知っていることを不思議がれよ。途中からは控え目なピアノの伴奏が入り始めた。アヴァターがメロディーを憶えたと思われる。まあそうだろう、単純な曲だからな。


   "This old man, he played ten,

   he played knick-knack once again;

   With a knick-knack paddywhack,

   give the dog a bone,

   this old man came rolling home."


 とうとう10番まで唄いきってしまった。しかし、最後の第4フレーズから第5フレーズに続く間の“タメ”とか、最後の"rolling home"を1拍ずつ伸ばしながら唄うとか、あの女の子と初めて一緒に唄ったはずなのに、どうしてぴったり合うんだ。おそらくマルーシャが女の子の口の動きを見ながら合わせてるんだろうが、ピアノまでぴったりリズムが合うのが信じられない。

 拍手がなかなか鳴り止まない。しかし、マルーシャは女の子と共に観客へ向かって優雅にお辞儀レヴェランスし、それから女の子を両親の元へ返し、ティーラを呼び寄せてもう一度お辞儀レヴェランスし、司会にマイクを返した後で、船長キャプテンと熱い抱擁を交わしてから、舞台裏へ消えていった。去り際に一瞬、俺の方を見たような気がしたが、偶然かもしれない。

 まだ会場はざわめきが治まらないが、もう船室キャビンへ引き上げよう。俺の他にも、何割の客がラウンジから出て行こうとしている。余計なお世話かもしれないが、この後のプログラムが盛り上がるのか心配だ。エレヴェーターの前は客でいっぱいで、階段のところにまで溢れているので、人混みをかき分けて行かなければならないほどだった。しかし、階段に入ると下の方は空いていた。

 ラウンジにいた時から頭に浮かんでいる“マルーシャの謎”を考えながら部屋に戻ると、ドアの下に手紙らしき物が差し込まれていた。さて、泥棒が宝石を盗んだというメッセージでも残していったのかな。拾い上げて部屋へ入る。ベッドの端に座りながら封筒を開ける。封はしていなかった。中に1枚の便箋が入っていて、どこかで見たような字で、メッセージが書かれていた。


 "Please! Come to Knightsbridge suite at 7 o'closk tomorrow."


 明日7時にナイツブリッジ・スイートへ来て下さい、か。7時ってのは朝でいいんだろうな? 何なら今から行ってもいいんだぜ。しかし、行くとまたどんな引っ掛けに遭うか、判ったものじゃないからなあ。それにこのメッセージはいつ入れたんだ。俺がラウンジに着いたのはマルーシャより後だったんだぜ? 全く不可思議な女だ。


(※)注:"CIELITOシエリト LINDOリンド"の歌詞は著作権の保護期間内であるため、ここに掲載できません。ご了承ください。なお、"THIS OLD MAN"の著作権は消滅していますので、1番と10番の歌詞を掲載しました。

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