#5:第1日 (5) 尾行する美女

 カプリ・デッキとバハ・デッキは、映画館を除くと基本的には船室キャビンしかないので、あまりうろうろしていると怪しまれてしまう。オーロラ・デッキから上ならうろついても怪しまれない。ただし、オーロラ・デッキもアーケードの周辺だけだが。うろつくのはターゲットの情報を得るためでもあるが、キー・パーソンを探すためでもある。500人の中からキー・パーソンを探す、いや、スタッフを含めれば700人、乗務員クルーまで含めれば1000人近いかもしれないんだから、探すのは大変だ。

 しかし、汽船シップの中に必ず乗っているのだから、そのうち出会うのは間違いない。それどころか、今までの経験からすれば、キー・パーソンとは必ず接触があるはずなのだ。もっとも、これだけ人口密度が高くて、しょっちゅう誰かとぶつかりそうになっているものだから、どいつもこいつもキー・パーソンに思える状況というのは初めてだが。

 それと、匿名アノニマスのアンナ。好んで会いたいとは思わない相手だが、動向はある程度は知っておく必要がある。向こうだけが一方的に俺のことを観察していたら不利になるからな。歩き回っていれば、そのうち見かけることもあるかもしれない。少なくとも、名前と、どこの船室キャビンに泊まっているかくらいは何とかして調べよう。

 さらに、もう一人競争者コンテスタントがいるわけで、そいつが誰かということも調べなければ。やることがいっぱいあって大変だ。裁定者アービターを情報収集に使うことができるということだが、それには具体的な指示を与えなければいけないらしいし、それだけ事前調査をしっかりしろということだ。

 とはいえ、当てがあるわけでもない。歩き回ることは一通りやったので、今度は別の方面から情報を集める。今後の予定の確認……要するに船内新聞を読むことだ。新聞といっても船内のイヴェントや次の寄港地でのアクティヴィティーが書かれたリーフレットだ。船室キャビンから持ってきたが、インターナショナル・ラウンジへ行って読むことにする。今の時間帯はみんなラウンジでくつろいでいるようで、空き席が少ないが、ちょうど窓際の席が空いたのでそこに座る。

 午後3時からダイニングでティー・パーティー、スター・ライト・ラウンジでポップス・コンサート。午後6時からインターナショナル・ラウンジでラテン・コンサート、11時半からダンス・タイム。映画館では昼間に子供向けの映画、夕方から『ステップフォードの妻たち』を上映。明日はティー・タイムにダイニングでミステリー作家のトーク・ショー、夕方にサン・ルーカス岬沖に到着して希望者は1時間半ほどの海岸クルーズ、夜はラウンジでマジック・ショー。まあ、大した情報はなかったな。

 読み終わってふと顔を上げると、通路を挟んだ向かい側の席に、いつの間にか若い美女が座って本を読んでいる。綺麗なシャンパン・ブロンドの髪を、肩に届くほどに伸ばしている。どこかで見たような顔だ。確か、昼食の時に匿名アノニマスのアンナの隣に座っていたような。うん、たぶんそうだ。あの時はアンナの顔を見ただけで動揺してたのですぐには思い出せなかったが。

 アンナとよく似た容姿だが、美貌もスタイルの良さも一段くらい落ちている。胸もわりあい大きいのだが、“あれ”に比べれば並みのサイズくらいに見えてしまうな。それでも、実際のところはかなりの美人だ。

 でも、あの姿はたぶんアヴァターだよな。すると、アンナは早くも裁定者アービターを俺の偵察に差し向けてきたのか? 流石と言う他ないが、向こうからアプローチしてきてくれたことで、こちらからもアプローチしやすくなった。声でもかけて……と思ってたら、別の男が先に声をかけている。まあ、あれだけ美人なら声をかけられるだろうよ。他の人間はアヴァターには見えないらしいからな。

 男が名前を聞いている。うん、いいぞ、俺も知りたかった。何だと? 声が小さすぎて聞こえない。フィーラ? ティーラ? よく聞こえない。そもそも、ファミリー・ネームがわからないと調べづらいんだが。色々話しかけられているが、あまり答えていないというか、はっきり言って迷惑してるという感じだな。あんまり困ってるようならわざとらしく助けの手を差し伸べてみるという手もあるが……

 おっと、こっちの方を一瞬見たぞ。偵察する相手の方は見ないのが定跡セオリーだと思うが、何しろアヴァターだからなあ。彼女はアンナとどういう関係という設定なんだろう。顔が似てるから妹かな。それとも俺と同じで従妹とか。面白そうだからもう少し放っておこう。俺に助けを求めて来たらそれはそれで手間が省けるし、逃げて行くようなら跡をけていけばいい。何か、泣きそうな顔してるぞ、大丈夫か? あまりにも気が弱くて、断り切れないって感じだな。逃げ出そうにも、何かきっかけがないとダメなんだろう。でも、俺は何もしないぞ。自分で何とかしろ。

 通路をウェイターが歩いてきて、他の客とすれ違う。ウェイターが一歩避けながら、男の目の前に尻を向ける形になった。それがきっかけで女が立ち上がる。男の方は追いかけたそうにしているが、ウェイターが前にいるので立ち上がれない。ウェイターがどいて、男がようやく立ち上がったが、その時には俺が目の前に立ちふさがっていた。俺も彼女を追いかけないといけないんで、悪く思わないでくれ。男は諦めたように元の席に座った。

 女の後を追ってラウンジを出る。女はラウンジの前の廊下に立ち止まっていたが、俺の姿を見て慌てて階段を降りていった。俺も階段を降りるが、そこで見失ってしまった。ここはプロムナード・デッキだが、まさかこのフロアの船室キャビンなのか? もしそうなら俺とはずいぶん待遇に差があるな。

 さて、彼女の船室キャビンがどこかを調べるには……やはり名簿からだな。名前はフィーラかティーラと聞こえたが、綴りが浮かばない。ファースト・ネームから探すのは難しいが、一応見てみよう。オーロラ・デッキに降りて掲示板の名簿を見る。部屋番号順のリストを見ていくが、プロムナード・デッキから始めてオーロラ・デッキの途中まで見たが、それらしい名前はなかった。全部はとても見てられない。諦めがよすぎるかもしれないが、そのうちまた俺の偵察に来るだろうから、その時に何とかしよう。

 ついでにパーサーズ・ロビーを覗いたが、事務長パーサーはいなかった。代わりに若い船員がいる。案内係かな。

「ちょっと訊きたいことがあるんだが……」

「はい、何でしょう?」

 男は返事をして元気よく立ち上がると、愛想のいい顔をしながらこちらに歩いてきた。

「プロムナード・デッキの外の通路は、一周できるのか?」

「外の通路? はい、一周できますよ」

「朝の早い時間に、その通路でランニングをしたいんだが、できるだろうか」

「ああ、なるほど。ええ、もちろんできますよ。反時計回りで走って下さい。ただ、夜明け後から朝食時間帯まででお願いします。夜明け前は暗くて危ないですし、朝食時間後は甲板に出るお客様が増えますので」

「そうか、ありがとう。……ひょっとして、他にも走る奴がいたりするのか?」

「そうですね、たぶんいらっしゃると思います。まあ、明日はまだ2日目ですのでそれほど多くないと思いますが、3日目、4日目あたりからは増えてくると思います」

 そういうものなのか。知らなかった。クルーズ船は乗ったことがないからな。礼を言ってロビーを出る。

 ふと目の前のブティックを見ると、さっきの女がいた。商品を物色するふりをしつつ、俺の方を気にしている。また来るだろうと思ったら、こんなすぐに来るとは。俺が見ているのに気付くと、その後は俺の方を見なくなった。何とわかりやすい尾行者。もしかして、わざと俺に見つかっているのだろうか。

 声をかけようかと思って一歩踏み出したら、女はブティックから足早に出て、アーケードの向こうへ消えてしまった。あからさまに追いかけるのも周りの人間に怪しまれるので諦める。次はいつアプローチしてくるのかな。

 とりあえずプロムナード・デッキへ上がって、外の通路を一周してみる。走るわけではないが、教えられたとおり反時計回りに歩いてみよう。右側の通路から前の方へ行くと、壁側には船室キャビンの窓が並んでいる。こんなところを早朝に走ったら、寝ている連中の邪魔になるのではないだろうか。まあ、走ってもいいと言われたんだから、気にしないでおくか。

 ずっと先へ行くと開放甲板になる。中央辺りにはウインチなどの機器が並んでいる。舳先の一番先端までは行けなかったが、かなり近いところまでは行けた。そこで左側へ回り込み、後ろへ歩く。

 左側船室キャビンの横を通り抜け、船内へ入る通路を通り過ぎて、船尾へと進む。そして後ろの開放甲板に出た。今度は汽船シップの一番後ろまで行けた。前方と違ってこちらには人が多い。柵にもたれて、後ろに流れていく航跡をずっと見ている男女がいる。航跡というのは、なぜかは知らないが見ていると面白いものだ。あれを見ながら、「航跡というのは渦巻きエディ渦巻きヴォーテックス渦巻きワールプールの複合で……」などと言って人をだまくらかしたくなる。

 折り返して右側の通路を前へ進む。元の場所に戻ってみたが、一周300ヤードくらいだろうか。まあ、これくらいあればいい運動になりそうだ。

 船内に戻り、もしかしてさっきの女がまたいるのでは、と思って辺りを見回してみたが、いなかった。さすがにそう何度も連続でアプローチしてくることはなかったな。しかし、彼女は俺の顔をどうやって憶えたのだろう。俺が彼女を見たのは一瞬だから、向こうだって同じはずだ。アンナが教えたのに違いないが、写真を持っているのだろうか? まさかと思うが。

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