#5:第1日 (4) エンサイクロペディア・ヴァーチャリア

 いったん船室キャビンへ戻ったが、エレインはおらず、その後も船中を探したがどこにもいない。諦めて昼食の直前に船室キャビンに戻ったら、エレインが鏡の前に座ってドライヤーで髪を乾かしていた。おかしい。プールへは何度も行って、いないことを確かめたんだが。

「あら、アーティー、どこに行ってたのよ。もうすぐ昼食よ」

 それはこっちの台詞だ。

「どうして昼食の時間を知ってるんだよ」

「だって、プールに行く前に見てきたもの」

「じゃあ、俺に頼むなよ」

「いいじゃない、ついでだったんだから。それで、ルーム・サーヴィスは?」

「それは訊かなかったのか?」

「だって、誰もいなかったんだもの」

「電話機の赤いボタンを押すんだとよ」

「あら、そういえばルーム・サーヴィスって書いてあるわ」

 相変わらずずぼらスロッピーな奴だな。本当に仮想人格なのか。完璧なまでの再現ぶりじゃないか。

裁定者アービター!」

裁定者アービターが応答中です」

 うん、わざわざドライヤーまで止めてくれてありがとう。君はエレインなんかよりずっといい“人”だと思うよ。

「この汽船シップの諸元が知りたい」

「了解しました。長くなりますので、どうぞおかけください」

 ……うん、君、ほんといい“人”だわ。ありがたくベッドに腰掛けさせてもらう。

「船名はサン・プリンセス。全長536フィート、総トン数1万7370トン。動力はフィアット製ディーゼル・エンジン4機、出力1万8千馬力、巡航速度20.5ノット、最大速度25.5ノット。収容客数736人。1970年、ノルウェイジアン・クルーズ・ラインのオーダーにより、イタリアのリヴァ・トリゴソ海軍造船所が建造。当初の船名はシーワード。ただし、竣工前に連合王国のP&Oクルーズに売却されたため、この船名は使用されず。1972年5月11日進水、同年10月11日竣工。船名をスピリット・オヴ・ロンドンに変更。処女航海は同年11月11日、連合王国のサウサンプトンを出港し、ポルトガル領マデイラ諸島、バルバドス、グレナダ、フランス領マルティニーク、連合王国領アンティグア、合衆国領ヴァージン諸島を経由し、プエルト・リコのサン・フアンまで。以後はサン・フランシスコを拠点とした太平洋航路に就役。1974年8月、P&Oクルーズがプリンセス・クルーズを買収し、ロス・アンジェルスを拠点としたプリンセス・クルーズに就役。同年10月、船名をサン・プリンセスに変更。ダイニング・ルームの改装、カジノの拡張、ジムの追加を実施。以上です」

 まさかここまで詳しく教えてくれるとは思わなかった。しかし、おかげで連合王国とノルウェーが絡んでいる謎は解けた。しかも、イタリアまで関係しているとは。ただ、ターゲットのヒントになるものは何もなかった。

「それから、これはステージとは関係ないかもしれないが、今年行われたスーパー・ボウルの結果が知りたい」

「第9回スーパー・ボウルは今年1月12日、ルイジアナ州ニュー・オーリンズのテューレイン・スタジアムで開催されました。AFCチャンピオンのピッツバーグ・スティーラーズと、NFCチャンピオンのミネソタ・ヴァイキングズが対戦。スティーラーズがヴァイキングズを16対6で破りました。MVPはスティーラーズのRB、フランコ・ハリスでした」

「もしかして、QBはテリー・ブラッドショーとフラン・ターケントン?」

「はい」

「思い出してきた。前半はそれぞれ守備の“スティール・カーテン”と“パープル・ピープル・イーターズ”が健闘して、セイフティーの2点しか入らなかったゲームだな?」

「はい」

 映像は断片的にしか残っていないので全部見たわけではないが、プレイ・バイ・プレイは憶えている。まあ、こんなことを思い出しても何の役にも立たないだろうが、裁定者アービター百科事典エンサイクロペディアのごとく何でも教えてくれるということだけはよく判った。

「ところで、君は腹が減ったりしないのか?」

「そのようなことはありません」

「君と一度くらい食事してみたかったんだが、残念だな」

「お気持ちはありがたく頂きます」

「エレインに戻っていいよ」

「申し訳ありませんが、お立ちください。先ほどの状況を再現します」

 そうか、長くなるからかけろと言われたんだったな。俺が立つと、裁定者アービターはドライヤーのスイッチを入れた。そうか、それも再現するのか。

「アーティー、早めに昼食へ行かない? 遅れて行くと、注文した料理も遅く出てくるんだって。親切な人がプールで教えてくれたわ」

 エレインの声に戻った。お前より裁定者アービターの方が人間らしく思えるなんて、どういうことなんだろうな。

 ともあれ、二人で船室キャビンを出てダイニング・ルームへ向かう。同じようなことを考えている連中がたくさんいたようで、エレヴェーターの前に行列ができていた。階段で行こうとエレインに言ったが、エレヴェーターで行くと言って聞かないので、先に階段で行って待っていることにした。2台待ってようやくエレインが来たが、ダイニング・ルームへ入ったときにはちょうど1時半になっていた。

 入口で部屋番号を告げると、ウェイターが席まで案内してくれる。指定席らしい。しかも相席で、向かいには老夫婦が座っていた。席に着く直前に、奥のテーブルの方に知った顔が見えた気がした。あれはまさか……匿名アノニマスのアンナ? なぜ彼女がこのステージに。いや、ターゲットを0.5ずつ分け合ったことがあるから、競合が多くなるとは聞いていたが、あれからまだ2ステージ目じゃないか。確かめたいが、今から奥のテーブルを覗きに行くわけにもいかない。あんまり動揺したんで、ウェイターがメニューを差し出しているのに気付くのが遅れたくらいだった。

 昼食だが、複数のコースの中から選べるようで、俺はチキン・ソテーがメインのコースにしたが、エレインはビーフ・ステーキにしようかなどと言っている。夕食はフル・コースなので肉料理も出てくるはずだから、昼に食べなくてもいいのに。

 注文を終えて待っている間に向かい側の老夫婦が話しかけてくる。ジャックとベティーのデイヴィス夫妻で、エル・セントロから来たとか言っている。ガス・ステーションを経営しているそうだ。エレインが意外にも愛想よく受け答えをするので俺は黙っていた。俺たちが従兄妹カズンズだと聞いても相手は特に驚きもしなかったので、やはり俺の感覚だけが違っているようだ。

 そのうち、向こうの前菜が来て会話は一時中断、しばらくして俺たちの前菜も来た。しかし、メイン・ディッシュがなかなか来ないのでまた会話が始まる。あちらは結婚40周年の記念に息子夫婦がこの船旅クルーズをプレゼントしてくれたそうだが、それに対してエレインが慈善くじラッフルで当てたことを話すと、大変運がいいと二人して盛んに感心している。その感心のしかたがちょっと大げさすぎるような気もしたが、俺の方はアンナのことが気になって仕方がない。メイン・ディッシュが出てきたが、味がよく判らなかった。

 彼女が同じステージにいるとすると、またいいようにこき使われた後でターゲットを奪われる、なんてことになる可能性がある。要注意だ。どこの船室キャビンに泊まっているのかくらいは知っておきたいが、本名が判らないのでは調べようがない。

 色々考えながら食べていたら、エレインよりも遅くなってしまった。デイヴィス夫妻は食べ終わっていないが、エレインが船内を見て回りたいというので別れの挨拶をして先に退出する。別に俺と見て回るわけでもないから一緒に出る必要はないが、食事の時だけは互いに勝手に行動するわけにもいかない。ダイニングの前でエレインと別れたが、よく考えたら出港から4時間以上経っているのにあいつは船内をろくに見ていなかったということだ。俺なんて、もう見るところがほとんど残っていないというのに。

 さて、これから何をして過ごせばいいのやら。何も思い付かないのでいったん船室キャビンへ戻り、着替えるついでに荷物を整理することにする。スーツ・ケースを開けると、俺の物とは思えないほどの大量の物品が出てきた。俺の共同住宅テネメントの部屋のクローゼットとチェストにあったものが、全部詰め込まれてるんじゃないか? しかも、服がやけに多い。いくら1週間の旅行だからって、こんなに服がいるわけないだろ。下着なんて浴室で洗えばいいから、2枚か3枚くらいで……ああ、そういえばエレインが同じ船室キャビンにいるんだった。それなら浴室で干すわけにはいかないな。

 とりあえず、スーツくらいはクローゼットに、と思ったが、既にエレインのドレスで占領されていた。あいつめ、俺の荷物のことを全く考えてないな。しょうがないのでクローゼットの外側に吊しておく。

 後は……そうだ、今までのステージで買ったアクセサリー類。俺が着けることはないが、どこに置いておこうか。金庫があればいいのだが、そんな物は備え付けられていない。かといって机の抽斗に入れておくのは危険だ。何しろ500人もいれば、一人や二人は泥棒が混じってると考えるのが普通だからな。まあ、俺を含めて3人いるのは間違いないのだが、それ以外にもいるかもしれないし。

 とりあえず、靴下に詰めてクローゼットの上の、救命胴衣が入った棚の奥に隠しておく。ここなら相当身長の高い奴じゃないと届かないだろう。

 さて、着替えようと思っていたが、洗濯物を増やすのは困ることが判ったので、上着を脱ぐだけにしておく。その上着をベッドの上に放り投げておいて、船室キャビンを出る。もう一回りしてみよう。

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