#3:第3日 (4) あなたを独り占め
真っ直ぐ大学寮へは戻らず、ブロード
ブロード
レプリカ・ジャージもいくつか置いているが――ドリュー・ブリーズのジャージを見て、2009年のスーパー・ボウルはセインツが勝ったのを思い出した――、ヘルメットやショルダー・パッドなどの防具も一通り揃っている。オックスフォードのカレッジにクラブ・チームでもあるのだろうか。それにしても、やはりこの時代のショルダー・パッドはかなりごつい感じがする。
もちろん、そんなものを買おうとは思わなくて、ボールだけを買う。公式球を置いていた。手に持って感触を確かめる。久しぶりにボールを持ったなあ。現実世界にいるときは毎日投げてたからな。仮想世界にとらわれてから、
それから新聞スタンドで夕刊紙を買い、またブラックウェルズへ寄る。ルイーザを探してみたが、やはりいない。今日は観光に付き合ってるから休みなのかな。まあ、いたとしても何を話したらいいか困るのだが。
寮へ戻り、夕刊紙を読む。昨日のアッシュモレアンの泥棒に関する続報は特になし。今朝未明に泥棒が入ろうとしたというような記事もない。そうすると、俺がサックラー図書館の屋上で感じた妙な雰囲気は、気のせいだったのだろうか。だからといって、泥棒が入ってくれていた方がすっきりする、というわけではない。そもそも、そんなことになったら屋上の警備が厳しくなって、入れなくなってしまう。今のところ見つけている進入路はあそこだけだ。潰されたら、他を探さなければならない。
正面から入るのは論外だろう。他に、セント・ジャイルズ
それに、
それとも、調べれば他に経路が見つかるのか? もしかすると、ルイーザたちはそのためのキー・パーソンなのだろうか。何を訊けばそんな情報がもらえるのやら。ともあれ、屋上からの侵入が不可能になったわけではない。予定どおり、今夜もう一度偵察に行く。その前に仮眠を取りたいので、今日は夕食を早めに切り上げよう。昨日行った、ラム・アンド・フラッグから4分の1マイルほど北にあるロイヤル・オークがいいだろう。
いつもはキーブルの南側の道を通ってセント・ジャイルズ
店に入る。ここも有名な店なので、こんな時間から賑わっている。しかし、席はいくつか空いている。それなのにカウンターに立ち客がいるのは、立って飲むのが好きだからだろう。チキンとマッシュルームのパイと、オレンジ・ジュースを頼もうとしたら、後ろから「ナイトさん!」という声がかかった。ルイーザの声だ。まさかの展開。振り返ると、ルイーザがいつもの笑顔で、二人掛けの席に一人ぽつんと座っていた。今日は会わないだろうと思っていたが、これもシナリオ上の仕掛けなのか。バーマンからオレンジ・ジュースを受け取るときにテーブルへ行くと告げ、ルイーザの方へ行く。
「やあ、今日は一人か。どうしてこんなところに? サラと一緒に彼女の従姉の観光案内をしてたんじゃなかったのか」
「パントに乗ってるときにちょっと気分が悪くなって、私だけ一人で先に帰ったんです。昨日の夜、寝る前に論文を読んでいて寝不足気味だったから、そのせいだと思うんですけど」
そのわりには元気そうな顔をしているが。まさか、俺の顔を見て元気が出たとか言うんじゃないだろうな。
「今もその論文を読みながら、昨日の夕食の時のことを思い出してたんですけど、そうしたらナイトさんが来たので本当にびっくりしました! どうして私がここにいるって判ったんですか?」
別に判ってて来たわけじゃないんだがね。それとも、君を探してここへ来たとでも言えば喜んでくれるのか。
「とりあえず、毎日違うパブへ行こうと思って来てみた。順番から行くとイーグル・アンド・チャイルドなんだが、サラ教授の講義が待ってるんじゃないかと思ってね」
「だから私の方へ来てくれたんですね。うれしいです」
ルイーザが笑う。本当にうれしそうだな。
「それで、気分が悪くなったって言ったが、今は大丈夫なのか?」
「はい。寮に戻って一眠りしたらすっきりしました。その後で、この近くによく利用する薬局があるので、そこで薬を買った帰りに、夕食も済ませようと思って寄ったんです。寮の夕食はキャンセルしてしまっていたので」
ルイーザの前にはソーセージ&マッシュとレモネード。相変わらず少食だ。野菜も食べた方がいいな。しかし、薬なんて大学内でも処方してくれそうなものだし、気分が悪くなった後に出歩いて食事するなんてのも変だし、不自然極まりないシナリオだ。クリエイターはどうしてもルイーザと俺を会わせたいらしい。
「それで、これが昨夜読んでた論文なんですよ。ナイトさんに教えてもらったテーマのうちの、ガウシアン・ノイズの場合のシミュレーション評価なんです」
そしてやっぱりこうなるのか。それにしても、
差し出された論文を見たが、どうも見覚えがある気がする。俺がシミュレーションしたのは単純なホワイト・ノイズの場合だけであって、その他のノイズは参考文献にしか挙げなかったはずなのだが。もしかして、知識として頭の中に追加されてるのか? いや、たぶん読んだのに忘れかけてるだけか。
「今日はビールは飲まないんですか?」
「一人で食事するときはたいてい飲まないんだ」
「そうですか。私もそうなんです」
ルイーザがまた笑う。同じようにビールを飲まないというのが、なぜそんなにうれしいのか。それとも、素面で研究の話ができると思って喜んでいるのか。俺が飲まないのは、この後、偵察に行くからであって、彼女とは心構えが全然違う。チキンとマッシュルームのパイが運ばれてきた。顔を上げると、ルイーザと目が合った。飲み食いせず、俺のことをじっと見ていたらしい。なぜだ。
「どうですか?」
「計算機シミュレーションのプログラミングに時間がかかりそうだな」
「そう言われると思いました」
また笑顔。俺が何か言うたびに笑ってるな。彼女は俺に何を訊きたいのだろうかと思う。それとも、単に話相手が欲しいだけなのかもしれない。
「サラには訊いてみた?」
「いいえ、まだです。今日は遅くなりそうなので。また彼女の従姉と夕食へ行くんですよ。本当は私も行くはずだったんですけど、アランが代わりに行ってくれたんです」
なるほど、そういうことか。アランがアンナに誘惑されないことを祈るよ。
「だから今日は私がナイトさんを独り占めです。とてもうれしいです」
一瞬、どきっとする言葉だが、でもそれって研究の話相手を独り占めってことだろ。やっぱりそういう思考なんだ、この娘は。
「それで、この論文なんですけど、ノイズの平均周波数を
「まあ、そうだろうな。それがどれくらいの関連度になるのかを、計算機シミュレーションで求めるというのは面白そうに思うけど」
「そうですよね。私もそう思います」
「休みの間に試せそうなのか?」
「ええ、明日やります。プログラミングはあまり得意じゃないですけど」
俺は得意だけど、手伝わないぞ。そもそも君が使うのは俺の知らない言語だろう。
「今日はどこへ行ってたんですか?」
おや、珍しく彼女の方から研究以外の話題を切り出してきた。自分が観光していたせいでもあるのかな。
「科学史博物館へ行って、聖マリア教会の塔に昇って、クライスト・チャーチ大聖堂を見てきた」
「科学史博物館は楽しいですね。私が初めてオックスフォードへ来たときに、見に行きました。子供向けの科学講座って、やってましたか?」
「やってたよ。大人気みたいだった」
「私も参加したことがあります。楽しかったですよ。聖マリア教会の塔は、私は昇ったことがないです。高いところが苦手なので。大聖堂はいかがでしたか?」
「広くて、窓が綺麗だったな。シカゴの
「もちろん、そうですよ。規則で、いい加減な服装をして行けないから、大変です」
なるほど、毎晩、フォーマルかインフォーマルに着替えなければいけないというのは確かに大変だ。それに化粧もするんだろう。いくら簡単でも、口紅くらいは引くだろうし、男よりは一手間多いわけだ。
「君たちの方の観光はどうだった?」
「自然史博物館とピット・リヴァース博物館へ行って、そこで2時頃まで過ごしました。昼食も中で摂って。サラの従姉の反応は面白いですね、何を見ても大袈裟に驚くんです。それからモードリンへ行ってパントに乗りました。気分が悪くなったのは、寝不足だけじゃなくて、午前中にずっと歩き回って疲れたからかもしれませんね」
「モードリン?」
「あ、"Magdalen"と書いてモードリンと読むんです、オックスフォードでは。アッシュモレアン博物館の近くにもモードリン
マグダラのマリアに由来する名称だろうが、まさかモードリンと発音するとは思わなかった。変な読み方の地名は合衆国の方が多いと思っていた。
「パントってのはそんなに揺れるのか」
「漕ぎ方が下手だと、揺れるばっかりで進まないんですよ」
つまりサラの漕ぎ方が下手だったということか。それなのにどうして乗ろうとしたのかな。それとも従姉が希望したのか。
「ところで、ナイトさんに相談したい論文がもう一つあるんですけど」
「一つだけ?」
「いえ、本当はもっとたくさんあります。時間があれば、後で相談したいです」
ルイーザがバッグから別の論文を引っ張り出してきた。観光の話よりも楽しそうな顔をしている。このまま彼女と研究の話をして親睦を深めても、ターゲットに関する情報を聞き出せないんじゃないかという気がしてきた。まあ、そういう考えで彼女との接し方を変えるのは失礼なので、話は続けるが。そういえば俺の大学時代には、研究の話をこんなに楽しそうにする女はいなかったなあ。真剣ではあったけれども。
論文はブラウニアン・ノイズに関するものだった。ブラウニアン・ノイズはよく解っていないので、斜め読みはできない。真面目に読んでいる間に、ルイーザの皿の料理がほんの少し減った。これではパブの商売は上がったりだろう。読み終わった後で、料理を注文してから、意見を述べる。ルイーザがすぐさま自分の考えを返す。考え込みながら料理を食べる。1時間経っても2時間経っても議論が終わらない。大学の時に彼女がいたら、俺ももう少し楽しく研究ができただろう。ただ、彼女をガール・フレンドとしてフットボールのゲームへ連れて行くとなるとどうか。楽しんでくれるのかなあ。ハーフ・タイムに論文を引っ張り出して読み出すんじゃないだろうか。
結局、10時前まで話し込んだ。当然のことながら、彼女をクライスト・チャーチの寮まで送っていく。歩いている間も、ルイーザはずっと研究の話をする。夜に二人きりでいても、ロマンティックな雰囲気にはなりそうもない。俺も別に期待はしていないが。トム・タワーの前で別れの挨拶をする。
「今日もお話ししてくれてありがとうございました」
「気分が悪くなったんだから今夜は早めに寝なよ」
「そうします。頭をたくさん使ったから、ぐっすり眠れそうです」
ルイーザが中庭を横切っていくのを見送る。キーブルの寮に戻ると、10時半になっていた。シャワーを浴びてからすぐに寝る。仮眠は2時間くらいになりそうだ。
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