#3:第3日 (3) 美人学芸員、発見!

 クライスト・チャーチ大聖堂を出て、ブロード・ウォークを西へ戻る。セント・オルデーツストリートまで出ると、道の向かい側にアリス・ショップがある。赤い扉が目印だが、間口の狭い小さな店なので見過ごしてしまいそうだ。客で賑わっているようだが、さすがに俺が入るような雰囲気ではなかったので、少し立ち止まって観察するだけで、南へと歩く。今日見ようと思っていたところは見終わったが、テムズ川まで行ってみたい。300ヤードほど歩くと、橋が見えてきた。フォリー橋だ。

 橋の上に立ち、川の東方を眺める。観光船が見える。左手にある川岸の木立と小道は、初日に幕が開いた場所だ。パントがいくつも川にも浮いている。今日は日曜日だから、観光客だけでなく、オックスフォードの人々もこうして舟遊びを楽しむのだろう。川風が涼しい。サラたちの姿は見えない。ここではないのかもしれない。見つかっても困るが。

 さらに歩き、中州を越えて、その南側の橋を渡ろうとしたときに、例の、あの妙な抵抗が襲ってきた。この前の時はだんだん進みにくくなってきたのだが、今日は急にやって来たので驚いた。2、3歩の間に進めなくなってしまった。道を行く車も、歩いている他の連中も普通に通り過ぎていくのに、俺だけが動けない。ああ、通行人に奇異の目で見られている。悲しい。どうやらテムズ川より南に行くことはできなさそうだ。川の上に境界があるのだろうか。

 仕方がないので引き返す。ここはオックスフォードの中心から半マイルもないところで、こんなところに境界があるようでは、可動範囲は意外に狭いのだろうか。やはり自転車を借りて確かめてみるか。日が長い季節だから、9時頃までは明るいだろう。今はまだ3時。5、6時間もあれば十分という気がしないでもない。主要な道の“行き止まり”を調べるくらいなら。

 しかし、南側はこんな中途半端なところで終わっていたが、地図を見直すと、この先には住宅地しかない。もし、境界がテムズ川だとすると、この辺りではだいたいにおいて北から南へ流れていて、さっきのフォリー橋のところだけがたまたま西から東へ流れているのだ。だから、東側にはもっと範囲が広い、ということも考えられる。例えば、ヘドリントンまで行けたとしたら、かなりの広さだ。前回だって数マイル四方に渡る範囲だった。行ってみて、意外に広くて引っ込みが付かなくなっても困る。やはり可動範囲の調査というのは、朝からか、午後一番にやるのがいい。

 では、今日の残り時間は……行くまいと思っていたのだが、もう一度アッシュモレアンへ行ってみようか。ギャラリー41の状況を確かめるだけでもいい。できれば、学芸員キュレーターに状況を訊ければいいが。

 セント・オルデーツストリートを北へ戻り、アッシュモレアン博物館へ到着。チケット売り場の係員は毎日違うので、顔を憶えられていることはないだろう。3階へ上がる。やはり昨日と同じく、ギャラリー41だけが閉鎖されていた。幕が張ってあるのも昨日のまま。ただ、ギャラリー35と41の間の幕は、右の端に少し隙間がある。そこから中を覗いてみた。俺一人ではなく、何人かそうやっていたのでことさら怪しい行動ではないはずだ。しかし、見える範囲はごく狭く、中で人が動き回っていることしか判らない。突然、白幕が開いて女が出て来た。ブルネットの長い髪で、痩せていて背が高い。しかも美人。目が合ってしまった。というか、ぶつかる寸前だったが。ぶつかってもよかった。その方が話しかけやすい

「あら、失礼」

 女がそう言って穏やかににっこりと笑う。どうもどこかで見たことがある気がするが、ここで見たのだったかどうか。

「こちらこそ失礼。えーと……」

 ネーム・カードをぶら下げている。ティナ・フランクス。どうやらここの学芸員キュレーターらしい。なぜか急に話しかけたくなる。

「中はどうなってるんだ? ずっと見られないので、気になってるんだが」

「ああ、ここは今、展示の置き換えをしているところなの。明後日からは見られるようになるわ」

「そうか。泥棒が入ったと聞いていたんだが、ここじゃなかったんだな」

「えーと、それはその……」

 美人は曖昧な笑顔を浮かべた。意外と図星だったのか。

「展示ケースの状態がよくないのよ。博物館に泥棒が入ったのはそのとおりだけど、別のギャラリーよ。ここは、一昨日に事故があってその影響で……」

 何だか、言わずもがなのことを言ってくれた気がするが、もしかして彼女からもっと情報を引き出せるのだろうか。

「何だ、そうか。そうすると、泥棒は……もしかして、絵画の方のフロア?」

「いいえ、そうじゃないの。ただ、ここ以外は全部見られるから、気にしないで。それじゃ、私、置き換えの続きをしなきゃ」

「ああ、引き留めて申し訳なかった」

 美人は去って行った。バックヤードへ行くのだろうか。もう少し引き留めておきたかったが、俺は気が弱くて無理だな。もっと図々しい性格なら、たとえば……後ろを振り返る。さっきの美人が、男に呼び止められている。そう、例えばあのイタリア人みたいにな。あいつ、一昨日カフェにいた男だ。まさかここに偵察に来ていたとはね。今日は“知り合い”とよく会うな。

 あいつも、このギャラリー41のことを学芸員キュレーターに訊いているようだ。面白そうだから立ち聞きしておこう。イングランドの古典美術品を見に来たのに残念だ? そうやっておだてるものなのかね。ちょっとでいいから見せて欲しいと言っているぞ。美人は困っている。無理だってよ。そりゃそうだ。中の展示品について教えて欲しい? 美人は今は時間がないと断ったようだ。じゃあこの後、一緒に食事に行かないかって? 口説き始めたぞ、大胆だな。対して美人の答えは、今日はこの後残業して展示替えをしなきゃならないので一緒に行けない、と。男はまだ誘ってるぞ。美人ももっとはっきり断れば。いや、断ってるか。それでもイタリア人は諦めないんだ。国民性だろうが、女を相手にするときは粘り強いなあ。美人があっちへ行こうとしている。イタリア人は付いていこうとしている。二人でギャラリーから出て行ってしまった。追いかける必要はないか。なかなか面白い寸劇だった。

 さて、ギャラリー41をどうするか。もう少し中の様子を窺うか、それともさっきの美人が戻ってくるのを待つか。いや、イタリア人、お前戻ってこなくていいよ。美人に振られたんなら退散しろって。こっち見るな、来るな。

「やあ、君もこのギャラリーに興味があるのか?」

 話しかけんなって。彼もラテン系特有の顔立ちだが、目がフランス人より穏やかだ。それに人畜無害そうハームレスな笑顔を浮かべている。イタリアは北部と南部で見かけも性格も違うが、彼はどうやら北部だな。身体はやせ形で、少なくともアスリートではない。

「ああ、イングランドに来たから、イングランドの展示品が見たいと思ったんでね」

「僕もそうなんだ。一昨日にも見に来たんだが、その時ちょうど騒ぎがあって、満足いくまで見られなかったんでね。もう一度見たいと思って来たんだが、ずっと閉鎖されてて残念だ。しかし、明後日には見られるようになるらしいんだがね」

 そう思うんならもう帰れって。俺が競争者コンテスタントだと思って確認しに来たんだろ。絶対に肯定しないからな。それに、一昨日に見に来たときに騒ぎがって、半分嘘だろ。あの時、お前は俺と同じくカフェにいたじゃないか。

「そうか、残念だな。俺は明日には別のところへ行こうと思ってるんでね。バースでローマ浴場跡を見るんだ」

 バースのことをアランに訊いておいて良かった。言い訳に使えた。あいつ、ほんとに何でも知ってるなあ。

「ああ、そう、もっとオックスフォードでゆっくりしていけばいいのに。ここは見るものがたくさんあるからね。それじゃ、失礼」

 イタリア人は去って行った。たぶん、別のところからギャラリー41を覗くつもりだろう。俺はどうするかな。これ以上ギャラリーを覗くのは不信を招くからやめておいた方が無難だ。だが、閉館まではまだ時間がある。他のギャラリーを回って、泥棒が何を盗もうとしたか調べてみるか? しかし、普段どおり展示をしてるんなら、判らないだろうな。一昨日見たときのことを完璧に憶えていれば、展示の違いに気付くかもしれないが。

 そういえば、今朝未明に屋根から侵入しようとした奴は、いたのかいなかったのか? 一度、レストランへ確認に行くか。5階へ上がってみる。客が少ない。入れそうだ。ウェイトレスに頼んでみる。

「まもなく閉店しますので……」

 え、そうなのか? 今日は4時半まで!? 勘違いしていた。4時半までの日と、10時までの日があるのは認識していたが……リーフレットを見直す。月曜日が休みで、これは美術館も同じ。火曜日と水曜日と日曜日が4時半まで。木曜日から土曜日が10時まで。連続してないよ。美しくないな。いや、どうでもいいか。飲み食いしなくていいから、中に入れてくれ、と頼むのはおかしいよな。夜中の間に誰かここへ侵入したか訊くのはもっとおかしいよな。去り際に、レストランの入り口の錠を見る。ピンタンブラー錠らしい。しかし、そんなこと見ても意味がない。ここから入るんじゃないんだから。

 仕方ない、他のギャラリーを見よう。このまま降りながら見ていけばいい。まずは4階から。特別展示用のフロアで、ギャラリーが五つしかない。4階は二つに分かれていて、ここと、絵画用のフロアがある。間に壁があって、3階を経由しないと行き来できない。理由は解らない。しかし学芸員キュレーターはバックヤードを経由すれば行き来できるだろう。それを確かめるようなことはしないが。

 その特別展示フロアは、今は“発見の時代”というテーマで大航海時代に関連した絵画を……おかしいな、一番奥のギャラリー61が空になっている。他の展示品の配置も微妙に違うようだ。ここに泥棒が入ったのか? それとも、ここも展示替えをするのだろうか。

 その空のギャラリーから誰か出て来た。さっきの美人学芸員キュレーターだった。いつの間にこんなところへ。いや、俺がレストランへ行ってる間だよな。「やあ」と声をかけると「ハロー」と照れくさそうに返してきた。こんな短時間に二度も会うのだから、彼女に何か訊けという暗示であると思うのだが。

「ここも展示替え?」

「ええ、そう。詳しいことはリーフレットで案内しているわ」

「下のギャラリーから移動してきたりするのかな」

「ええ、そういうのもあるから、また見に来て」

 言いながら、少しだけ笑顔を振りまいてギャラリーを出て行った。追いかけてもっと話しかけるべきかなあ。今、下に行ったら、またあのイタリア人に捕まるぞとか。それとも、何か他のきっかけを作って親しくなるべきなんだろうか。とりあえず、俺もここには用がなくなったので、下へ降りる。ギャラリー35の前には予想どおりイタリア人が一人で立っていた。美人学芸員キュレーターはうまく切り抜けたようだ。

 俺に話しかけてこられても困るので、別の階段から絵画用のフロアへ上がる。中階構造スキップ・フロアではないはずだが、3Mという表示になっている。絵画だけに、モダン・アートのMかもしれない。それはいいとして、ここが一番高価なものを集めているフロアだろう。ミケランジェロやラファエル、ダ・ヴィンチのスケッチから、ピカソ、ルーベンス、セザンヌ、ターナーなどの絵画。中でもカミーユ・ピサロのコレクションは世界最大。この前から変わった様子はない。一つだけ、絵が掛かっていないところがあるが、これは前もそうだった。修復中なのかもしれない。

 また下に降りて、3階を見て回る。ギャラリー41以外は何の変わったところもない。2階も同じ。1階は建物の裏側に当たるギャラリー14が閉鎖されていた。どうやら泥棒はここから入ったらしい。入った方法は、中が覗けないので不明。しかし、憶えている限りでは、ここは大きめの窓が付いている展示室だったはずで、それならやはりガラスを破ったのだろう。

 最後に地下へ降りて、ギャラリーとショップとカフェを見たが――カフェももう入れず、客を送り出すだけになっていたが――どこも地下は変わった様子なし。結局、泥棒が何を盗みに来たのかは不明のままだ。とどめに、もう一度3階へ上がってみたが、美人学芸員キュレーターの姿はもう見られなかった。閉館時間になったので美術館を出る。

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