#3:第3日 (2) オックスフォード・マーマレード

 7時半に目が覚めた。少し寝坊したかな。それから昨夜の顛末を思い返す。それにしても奇妙な体験だった。今までだって解錠をしに行きながら、条件が悪いので今夜は辞めだ、なんてことは何度もあった。だが、昨夜のように、先を越されたんじゃないかと思って辞めたことは一度もない。ただし、この世界に来る原因になったのは俺が他の泥棒の先を越したせいであって、そっちの方も初めてだったのだが。最初のステージでも同じように気になる状況だったが、あの時は強行したよな。あれも、本当ならやめた方が良かった。

 冷たい水で顔を洗って眠気を覚まし、着替えてから食堂へ向かう。昨日よりは、食事をしている泊まり客が増えている。俺が遅く来たせいもあるだろう。昨日と同じように、ベーグル二つ、コーンフレーク、フルーツ類、オレンジ・ジュースを取ったが、オックスフォード・マーマレードというのを見つけたので、ベーグルにつけて食べてみた。生姜と、それからキャラメルか何かの甘ったるい香りがついたオレンジ・マーマレードだった。特にうまいともまずいとも思わなかった。

 日曜日でも博物館はもちろん開く。だが、開館時間はいつもと同じ10時だから、まだあと2時間ほどある。いったん寮を出て、昨日と同じ新聞スタンドに行って新聞を買う。博物館に関する記事は、小さいながらも載っていた。昨日未明の事件で、階段から突き落とされて重傷を負っていた警備員は無事とのこと。ルイーザの叔父の同僚だろうが、早めの回復を祈る。

 しかし、これで2日連続、博物館で怪我人が出たことになる。犯人は同じではないから連続傷害事件ってわけじゃないが、どうにも物騒なステージだとしか言いようがない。記事の続きに依れば、博物館は本日は通常営業予定とのこと。昨夜も誰かが博物館に侵入したのなら、新聞に載るのは今日の夕方だろうな。まあ、行けば何か判るかもしれないが、さすがに3日連続で博物館を見に行くのはどうかと思う。ちょっと冷却期間を置いた方がいいかもしれない。それに、まだ他にも調査が必要だ、という気がする。ただし、夜中の偵察は今夜もやるつもりだが。

 さて、まずはアルフレッド大王ザ・グレートに関する研究だ。今日は外へ出るのに慎重を要する。下手にうろつくと観光中のルイーザやサラに“偶然”会いそうな気がするからだ。何しろ、行く予定と言っていた自然史博物館とピット・リヴァース博物館は、キーブルのすぐ東にあるからな。もっとも、会うのはシナリオのうちで、逃れられない運命なのかもしれないが、少なくとも寮にいる間は会わないだろう。ただ、彼女たちからどんな情報を聞き出すべきなのかがよく判らない。研究の話をしている間は、絶対にターゲットとその関係の話にはならないだろうから。

 本を広げて関係するところを読む。アルフレッド大王ザ・グレートは9世紀のウェセックスの君主。これについては博物館だけでなくいろんなところで見かけた。同じくウェセックス王だったエゼルウルフの子。849年生まれ。名前は古英語で“良き助言者”の意味。エゼルウルフの五男だが、王位を継げたのは兄たちが即位するも次々に短命に終わったから。在位は871年から899年まで。878年にはイングランドの大部分を支配し、“アングロ・サクソンの王”となった。

 軍略にも長けていて、主要な戦いでは連戦連勝。軍艦を作らせて海軍を創設したり、兵役の交代制などの軍政改革を進めたりした。情報戦も得意。あやかりたいくらいだな。戦いだけではなく文学の振興にも力を注ぎ、自らラテン語の文献の英訳に携わった。宮廷学校を設立して貴族の子弟に教育を受けさせた。アングロ・サクソン年代記を作成させたり、アルフレッド法典を編纂させたり……なるほど、これだけ功績があれば大王と呼ばれるのも解る。死後には、聖公会、カトリック教会、正教会で聖人に認定された。

 しかし、オックスフォードとのつながりは特に見えてこない。ウェセックスというのはウェスト・サクソンに由来する名前で、イングランド七王国の一つだが、アルフレッド大王ザ・グレートが即位した頃の版図にはオックスフォードの辺りは含まれているのかどうか。オックスフォードというのは昔は大したところではなかったらしく、当時の地図には出ていない。だが、地図を見てロンドンやワイト島――オックスフォードのほぼ真南にある、ヨットレースで有名なイングランド海峡の島――との位置関係から推定すると、確かにオックスフォードはウェセックスに含まれている。

 アルフレッド大王ザ・グレートは人気者だけあって、真偽不明の伝説がいくつもあるのだが、そのうちの一つに、オックスフォード大学はアルフレッド大王ザ・グレートが創設した、というのがある。だが、オックスフォード大学の創立は11世紀だということだから、せいぜいアルフレッド大王ザ・グレートの教育改革が、オックスフォード大学の創立につながった、くらいのことしか言えないだろう。

 もしかしたら、ゲートはオックスフォードではないのかもしれない。このステージの可動範囲はまだ調べていないが、今日の午後はこの近くの観光兼調査ではなくて、可動範囲を調べる方がいいだろうか。そうなると単車モトを借りる手続きをしなければならないから、観光案内所ヴィジター・センターへ行かないと。ところで、何時になった? 何だ、まだ10時か。昼頃まで調べ物をしようと思っていたが、本を読みながら考えるのには疲れたので、そろそろ出るか。

 まず、ブロードストリート観光案内所ヴィジター・センターへ行く。単車モトのレンタルについて教えてもらう。

「店は全部駅の向こう側にあります」

 大学寮を紹介してくれたあの係員が言う。オックスフォード駅は西に4分の3マイルほど。レンタカー会社はさらにその4分の1マイル先。合計1マイルが遠いとは思わないが、どうして街中にないのか。

単車モトが借りられるか、調べてみてくれ」

「台数が少ないんですよ。出払ってるときが多くて……」

 言いながら係員はコンピューター端末を操作していたが、しばらくして「全部貸し出されていました」と笑顔で言った。少しくらいは済まなそうな顔をしてほしいものだ。自転車なら街のそこかしこにレンタル用のが置いてあるので、いつでも使えるとのこと。だったらいつでも可動範囲は調べられるので、後回しにする。

 では、手近なところから街の調査を始めよう。一番近いのは科学史博物館で、ここから150ヤード。ブロードストリートを歩けばすぐだ。石造りで風格があり、その壁石もところどころモザイク状に色が変わっていて経年の補修の跡を感じさせるが、実はこれこそが元々アッシュモレアン博物館に使われていた建物で、1683年に建てられたそうだ。アルフレッド大王ザ・グレート関連よりも、もしかしたらここの方がゲートになる可能性が高いかもしれない。展示品は古い実験道具や、科学関連の書籍が多い。日曜日ということで、子供向けの科学講座をやっている。しかも展示室の真ん中に置かれた机でやっているのだから微笑ましい。

 一番有名な展示物はアルバート・アインシュタインが1931年にオックスフォード大学で講義したときに使った黒板で、何かの計算式が書かれている。相対論的宇宙論の講義だったらしいが、これらの式が何を表しているのか俺にはさっぱりだった。ターゲットやゲートに関係なさそうでよかった。

 全部見て回るときりがないので、適当なところで切り上げて隣のシェルドニアン劇場へ。1669年に建てられた劇場で、デザインはクリストファー・レン。数学者、天文学者でありながら、建築家でもあったらしい。この劇場は馬蹄形をしていることが特徴で、内部の天井画も有名だそうだ。実際にコンサートなどが行われたりする他、オックスフォード大学の入学式や卒業式にも使われるとのこと。今日は開いていなかったので、外から見るだけになった。

 劇場を出て正面の所に“ため息橋”というのが見える。橋といっても川に架かっているわけではなく、道の上に架かっていて、ハートフォード大学カレッジの二つの建物をつないでいる。だから正式には“ハートフォード橋”というのだが、ヴェニスにある有名な――といっても俺は全く知らなかったが――“ため息橋”に形が似ていることからそう呼ばれているそうだ。設計はトーマス・ジャクソン。たくさんの観光客が写真を撮っている。

 劇場の南にあるのがボドリアン図書館、そしてラドクリフ・カメラだが、これは昨日と一昨日にも見た。しかもサラが昨日教えてくれたとおり、ボドリアン図書館は観光客で混雑している。日曜は休館なのに観光ガイド・ツアーだけはやっているから、なおさらなんだろうな。俺もツアーに参加しようと思っているが、明日以降になるだろう。

 ラドクリフ・カメラの前で、アンナがアランに声をかけたのはどの辺りか、などという余計なことを想像しながら通り過ぎる。その南にあるのは聖マリア教会だが、そこへ行く前に、その手前にあるヴォールツ・アンド・ガーデン・カフェで早めの昼食を摂る。しかし11時にもならないというのに客が大勢来ている。観光バスで団体でも着いたのだろうか。おかげで料理を受け取るのに手間取ったし、中の席はいっぱいで座れない。代わりに外に空き席を見つけることができた。ラドクリフ・カメラを見上げながらさっさと食べ、聖マリア教会へ行く。

 2度までも来ていながら教会堂の中をちらりと見ただけなので、今日は尖塔に登る。有料だった。127段の急な螺旋階段を上がるが、狭くて降りてくる人とすれ違うのが大変だ。高さは207フィートあるが、頂上まで登れるわけはなく、3分の2くらいのところに塔を一巡する通路があって、そこからオックスフォードの町並みを一望できる。ただし、通路は狭いので立ち止まると他の客の迷惑になる。カーファックス塔よりは格段にいい眺めだ。しかし、意外にも街がこぢんまりして見えるのは、周りに緑が多いせいかもしれない。この塔はオックスフォードのランドマーク的な存在といえるので、カーファックス塔よりはゲートに向いていると思うが、クライマックスとしては今一つ、という感じだな。

 東側にもう一つ高い塔があるのが見える。塔というよりは鐘楼だろう。地図で見るとマグダレン大学カレッジのあたりなので、そこの建物と思われる。見に行くかどうかは決めてない。

 塔を降りて西へ進み、カヴァード・マーケットへ行く。通路がアーケード式の屋根に覆われた市場で、日用品や生鮮食品、衣類、本、土産物などを売っている。ここは調査とは何の関係もなく、ただ買い物に来ただけだ。着替えの衣類をいくつか買う。菓子を売っている店が多い。ビスケットやケーキを売っている店に観光客が群がっている。もちろん、地元の子供も群がっている。別に貧しくて買えないわけではないだろうに、なぜあんなに物欲しそうな顔をしているのだろうと思う。

 マーケットの中を一回りしてから外へ出て、さらに西へ進み、昨日見たカーファックス塔の手前からセント・オルデーツストリートを南へ行く。この辺りでうろうろしているとルイーザたちに会いそうなので、さっさと早足で歩く。トム・タワーを通り過ぎて、昨日と同じ近道を通る。もちろん、昨日見られなかったクライスト・チャーチ大聖堂へ行くためだ。ターゲットとの関係は不明だが、ここは見ておいた方がいい気がする。

 入場料を払って中に入る。通路からして非常に荘重でいい感じだ。大聖堂に入ると、前回のサン・トロペの聖堂よりも格段に広い。これが大学の施設なのだからすごい。左手に“ヨナの窓”がある。17世紀、アブラハム・ファン・リンゲの作。一見するとステンドグラスなのだが、実はそれはヨナの姿の部分だけで、他は塗装ガラスがはめ込まれているらしい。全く見分けが付かず、口を開けて眺めるばかりだ。

 身廊から北袖廊へ進むと、大聖堂で最大の窓である“聖ミカエルの窓”。はめ込まれているのはヴィクトリア朝のガラス。北東の角には聖フリデスウィデ聖堂がある。大聖堂の中に別の聖堂があるわけだ。聖フリデスウィデはオックスフォードの守護聖人で、聖遺物箱レリクエリーも置かれている。ただし、中の聖遺物は1538年にヘンリー8世が修道院とともに破壊してしまったとのこと。

 その東側のステンドグラス“聖フリデスウィデの窓”も素晴らしい。そして主祭壇の隣には聖キャサリンの窓、南袖廊へ行くとベケットの窓がある。とにかく窓という窓に名前が付いているという感じだ。その代わり、サン・トロペのように像が置かれているということはなかった。宗教や歴史がどうこうというより、建築物として興味深いと思う。

 大聖堂を出て、中庭へ行く。正方形で、“トム・クワッド”という名前が付いている。オックスフォード最大の中庭であるらしい。トムはもちろん、トム・タワーと由来が同じで、タワーの鐘が“グレート・トム”と呼ばれているからだ。鐘がなぜグレート・トムなのかはリーフレットに書かれていないが、イングランド最大の鐘だそうで、毎晩9時5分に101回鳴らされるらしい。9時5分というのはかつての門限とのこと。何とも中途半端だが、理由は不明。9時に閉店になるパブを出て帰ってきたらちょうど間に合うとか、そんな理由かもしれない。101回の理由は、当時の生徒が101人だったからだそうだ。ちなみに鐘楼を設計したのはシェルドニアン劇場と同じクリストファー・レン。

 建物の中へ戻り、階段を上がると、グレート・ホールがある。俺が泊まっているキーブルの食堂をさらに大規模にした感じで、もちろんここは食堂として使われる。他の観光客から、映画がどうのこうのという声が聞こえる。そりゃあ、これだけ立派なホールなら、映画として使われることもあるだろう。むしろ、使わない方がもったいないんじゃないかな。合衆国ならCGで再現しようとするだろう。何なら、この仮想世界も映画の撮影所として使えばどうか。どんな施設だって再現できるに違いない。

 ずっと北の方へ行くと、ヘッドクォーター・クワッドがある。こちらも正方形で、トム・クワッドの4分の1ほどの大きさだ。以上で見学場所は全て。この他に画廊があるのだが、そちらは別のチケットが必要。見るつもりはなかったので買わなかった。

おいヘイお前ユー

 後ろから、声をかけられた。写真を撮ってくれというのではなさそうだ。男の声だから。振り返ると、見覚えのある男が立っていた。アッシュモレアンで見かけたフランス人らしき奴だ。ラテン特有の彫りの深い顔立ちで、目つきが鋭い。体格は俺と同じくらいかな。実はアスリートかもしれない。しかし、まさか向こうから声をかけてくるとは思わなかった。

何か用ワッツ・アップ?」

「一昨日、アッシュモレアン博物館にいたな?」

「さて、どうだったかな。よく憶えてない」

 こちらからは声をかけないと決めたんだから、そう答えるのが当然だろう。

「とぼけるな。お前が競争者コンテスタントであることは判っている。ある人物から聞いたんだ」

「何のことだか判らない」

 ある人物ってのはアンナのことだよな。それ以外に、俺が競争者コンテスタントであることを知っている人物はいないはずだ。しかし、彼女が俺のことを他人に言うかなあ。彼女自身が競争者コンテスタントであることは認めるだろうけど、名前すら教えてくれないのに、その他のことをしゃべるなんて。

「そうか。なら、そのまま何も知らないでいろ。例のターゲットには当分近付くなよ。お前にあれを取るのは無理だ。諦めて出て行く準備をしろ」

「人違いじゃないか?」

「ああ、そうだろうな。お前のような奴がこんなところにいるのが間違ってるんだ」

 きつい目で俺を睨むと、振り返って歩いていってしまった。うん、訳が解らない。警告に来たつもりだろうが、効果があると思ってるのかな。もっとも、このステージが始まったときに考えたとおり、他の優秀な競争者コンテスタントがターゲットを盗み出してくれたら、俺は何もせずにこのステージを出ることができる。本気で頑張るのは1回おきくらいでいいんじゃないかと思うんで。

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