かえってこい
瀬川
かえってこい
カレンダーが目に入ったのは、本当に何となくだった。
そして今日の日付が、二月二十九日なのを見て、真っ先に頭の中に浮かんだのは、うるう年ではなくて前まで住んでいた村のこと。
「そうか……今日は、祭りなのか」
誰に聞かせるでもない独り言は、色々な感情がこもってしまう。
それも無理はない。
生まれ故郷である村について、俺は良い感情を抱いていなかった。
そして、今日行われる祭りについても同様である。
俺が生まれた村は本当に不便なところで、若者の娯楽なんて一つもなく、周りを見回しても緑ばかり。
終の棲家としては、良い場所なのかもしれないが、刺激の欲しい年ごろにとっては、あそこまで酷い場所なんて無かった。
妙にお互いの距離感が近く、何かをすればすぐに噂が広まる。そして、お互いがお互いを助け合う。
田舎の強みであるそれも、俺にとっては我慢ならず、大学を卒業してすぐに、村を出る決意をした。
両親ともに、そこまで反対はしてこなかった。
俺の好きなように生きて、悪いことをしないのならば、それでいいと。
ただし、一言付け加えられた。
「四年に一度の、村の祭りの日には、必ず帰ってこい」
嫌だという隙を与えてくれず、言い切られてしまった言葉に、俺は何と返したのか覚えていない。
しかし、胸に広がった嫌悪感だけは、今でも思い出せる。
あれから、もう四年近く経ったのか。
村を出てから新社会人として忙しく、仕事に慣れてからは他に興味がわくことが多かった。
そのおかげで、村のことは思い出せずに済んだのだが。
「ああ、くそ。あの留守電のせいか」
俺は頭をかいて、深くため息を吐いた。
昨日の夜、久しぶりに母親から電話があった。
村を出てから、最初の頃は連絡を取り合っていたのだが、最近は面倒になって電話に出ずにいた。
俺が出ないのを悟ると、母親はメッセージを残すようになった。
今までは、体調はどうかとか、仕事は頑張っているのか、と言った風のものだったのだが、昨夜のは違った。
『陽介かい? 元気にしてる? ご飯はちゃんと食べている? それで明日のことなんだけど、こっちに戻ってくるんでしょう? 村の祭りがあるんだから、ちゃんとかえってきてね』
そのメッセージを聞いた俺は、気味の悪さから鳥肌が立った。
村にいた頃は、確かに祭りに参加していた。
しかし村から出た今、何故参加をしなくてはならないのか。
俺はかけ直すことをせず、そして村に帰るつもりも無かった。
「ああ、気持ち悪い」
更に頭をかいた俺は、時計を見て、仕事に行く時間だということに気が付いた。
ゆっくりしている時間が無いと、家から出ようとしたが、いつもの習慣でポストを開ける。
そして中に入っていた紙を取り出し、何ともなしに見た。
「……は?」
シンプルな便箋には、たった一行。
『かえってこい』
そう書きなぐられていたのだ。
――――――――
手紙の差出人は分からない。
便箋だけが入っていたということは、わざわざここまで来てポストの中に入れたわけである。
しかし、一体誰が? 何のために?
仕事から帰ってきた俺は、便箋を前にして腕を組んでいた。
かえってこい、という言葉は、きっと村に戻って来いという意味なのだろう。
それは間違っていない自信があるが、そうだとしても何故なのかという疑問が残る。
両親のどちらかが犯人だとしたら、こんな真似はしないだろうし、村の誰かがするわけもない。
まるで血の付いた指で書いたかのような文字は、いたずらにしては手が込んでいる。
「……くだらない」
気味の悪さと、少しの恐怖はあったが、俺は警察に届けるという選択肢は捨て、家に確認の電話をするのも止めた。
どうせ電話をすれば、話題は祭りの話になるのだ。
そうなることが分かっていて、わざわざ面倒なことをするはずもない。
手紙のことは忘れてしまい、明日の彼女とのデートについて考えた方が、建設的だ。
俺は手紙を丸めて、ゴミ箱の中に放り投げた。
「風呂でも入るか」
今はとにかく、気分をすっきりさせたい。
それには風呂に入り、リフレッシュする必要があるだろう。
体を洗い、浴槽にためた湯船につかると、体の芯から疲れがお湯に流れ出すような感じがした。
親父臭い声が出てしまうが、ここには聞いている人なんかいない。
やはり、風呂は良い。
俺はめいっぱい体を伸ばして、目を閉じた。
それから数分が過ぎた頃か、扉の向こう側から、電話の鳴る音が耳に入ってくる。
「誰だ? こんな時間に?」
正確な時間は分からないが、おそらく零時に近い。
こんな時間にかけてくるような、非常識な知り合いはいないと思っていたのだが。
緊急の用なのかもしれないとは考えたが、湯船から出る気にもなれず、扉だけ開けた。
そうすれば、音が少しだけ大きくなる。
何回かのコール音の後、留守番電話に切り替わる。
機械的な女の声のアナウンスの後、ピーという甲高い音。
『……陽介かい?』
聞こえてきたのは、母親の声だった。
「何だよ」
俺はため息を吐き、耳を傍立てる。
『昨日、電話しただろ? かえってこいって。どうして、かえってきてくれなかったの? かえってこいって、いったでしょ。なんでかえってこなかったの』
「ああ、しつこいな」
留守電から聞こえてくる声に、俺は眉間にしわを寄せた。
母親の声が、頭の中に響いて気持ちが悪い。
ああ、気持ち悪い。
帰ってこなかっただけで、何だというのか。
別に、誰かが死ぬわけでもあるまいし。
そう思っている間にも、母親の声は聞こえてくる。
『なんでかえってこなかったの? どうしてかえってこなかったの? おかあさんもおとうさんもまっていたのよ? あなたがかえってくるのを』
電話の向こうの声が、不穏なものに変わってきた。
さすがに変だと感じ、風呂から出ようとする。
しかし、俺の体は動かなかった。
「……は?」
湯船からあげた手は、ドロドロに溶けて、そして流れた肉がお湯の中に落ちる。
目に映る手は、もう骨しかない。
俺は見えている者が信じられずに、口を大きく開ける。
母親の声は、未だに止まらない。
『かえってこなかったから、かえってこなかったから、かえってこなかったから、ておくれ、もうておくれ、かえってこなかったから、あなたはておくれ、ちゃんとかえってきて、おまつりにでれば、こんなことにならなかったのに、なんてあなたはばかなの、どうしてかえってこなかったの』
溶けていくのは、手だけではない。
足も、腹も、腕も、きっと顔も。
俺の体は、ドロドロに溶けて、お湯に混ざっていった。
『かえって、かえって、かえって、かえって、かえって、かえって、かえってこない、かえってこない、かえってこない、ああ、もうておくれ』
母親の声が、どんどん遠くなっていく。
耳も、その中の脳みそさえも溶けていっている。
ああ、俺は村に帰るべきだったのだ。
帰って、祭りに出るべきだったのだ。
しかし、手遅れである。
ああ、村に帰るべきだった。
村に帰るべきだった。
最後に聞こえてきたのは、母親ではない誰かの声。
『かえってこい』
俺はドロドロ溶けた。
かえってこい 瀬川 @segawa08
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