第7話
何人の大人が雪月を触っただろう。
気持ちの悪い事を強いただろう。
躰を触り舐めていたぶり、縛り叩き躰に傷を残す。
痛みを与えて喜ぶ者や、悲鳴を上げさせて快楽を覚える者や、恥辱を与えて悦に入る者達や……。
薬を与えて苦しめる者や、精神を痛めつけて笑う者や……そんな奴らの顔が浮かんでは消えて行く。幾人も幾人も……決して忘れられない表情、決して忘れられない顔が次々と、横たわる雪月に襲いかかりのしかかる。痛めつけて痛めつけて、涙を流して許しを請うても、誰も決してやめてはくれる事はない……。
忘れていたのに……ずっとずっと……忘れていたのに……今またヤツらは雪月を恥ずかしめる。
「やめてやめて!」
雪月は涙を流して叫びを上げた。
煌々と輝く蛍光灯の下、ベッドに腰掛けた素子が静かに覗き込んだ。
「雪月君?大丈夫?」
優しい素子の顔が、汗を浮かべ涙を流す雪月の眼前に浮かんだ。
「……も、素子さん?」
「瞳眞さんが、寝入って暫くは雪月君
素子は雪月の頭を、撫でる様にして言った。
「堂条さん?」
「魘されてたら深く覗き込んでやってくれ、って……そうすると気配で目覚めるからって……」
素子はそう言うと、至極気の毒そうに雪月を見つめる。
「……辛い思いをしたのね……」
その素子の普段に変わらずの、優しい声音と喋りが心地良くて……心地良くて雪月は嗚咽を覚えて涙を流した。
「……僕、堂条さんが居ないと眠れない……忘れ様としても忘れられなくて……ずっとずっと夢の中でもあの人達は僕を苦しめて喜ぶ……堂条さんと寝ている時だけ夢に見ない……」
「……ならよかったわ」
雪月は素子がそんな事を言ってくれたので、だから苦痛に歪む表情を浮かべた。
「……よくなんかない……僕は堂条さんの力に依存してるんだ。あの人の凄い権力……僕を嫌う兄さんや、僕を苦しめる大人達すら恐れる力……それに依存してる……二度とあんな目に合いたくないから……」
「それで安心して暮らせて眠れるなら、よかったわ……」
「そんな……僕は堂条さんの……堂条さんの……」
「瞳眞さんが望めば、頼っていいのよ」
「……そうじゃなくて……」
「……瞳眞さんの思いに、付け込んだっていいのよ……」
素子は雪月の涙を、指で拭き取りながら言った。
「……それでもいいのよ?瞳眞さんが望めば……あの人は我慢という事を知らないから、それらが全て煩わしかったら、あなたを此処に連れて来て、そして私に頼んだりしないから……だからね?瞳眞さんの望む様にしてあげてちょうだい……あの人は幼い頃……ずっと大きくなるまで、お祖母様にその全てを圧し殺されて来たの……辛いとか苦しいとか……痛みとか感情をね?感じる育てられ方をしなかったの……ある日、お祖母様が亡くなったある日、初めてこの家を出てね……初めて人並みになろうとしたんだと思うのよ?
素子はそう言うと、何時もの様に優しく微笑んだ。
「……こんな僕がずっと堂条さんに、依存してていいんでしょうか?」
「そうしてあげてちょうだい。瞳眞さんが望む限り……瞳眞さんが
素子は雪月の涙を指で拭き取ると、優しく横になる様に促した。
「また夢を見る様なら、一緒に寝ましょうか?」
「えっ?」
雪月が頰を染めて吃驚すると、素子は再び笑い顔を見せた。
「私は平気だけど?」
その笑顔に、雪月もつられて笑みを浮かべた。
素子がトントンと胸元を、布団の上から叩いてくれる。
昔母がしてくれた様に……。
不思議とそのまま悪夢に魘される事も無く、ぐっすりと朝まで寝れた。
朝の心地良い陽射しの明るさに、雪月は自然に目を覚ました。
目覚めると素子は、部屋の中には居なかった。
それからずっと素子さんは、雪月が眠るまでベッドの縁に腰掛けて、たわいも無い話しをしてくれる。
その心地良い声音と喋り方に安堵して、雪月が眠りにつくまで居てくれる。
見事な食いっぷりの本田は、実直に送り迎えをしてくれて、そして美味い料理をそれは美味そうに食べるから、雪月もたわいもない会話と共につられて食事が進んだ。
雪月の不安を他所に、堂条の居ない日々を過ごして行く。
想像していた以上に苦もなく過ごしているのに、雪月は堂条の居ない日々に淋しさを覚えて戸惑った。
堂条が居ない所為での、悪夢に苦しまされる日々とか、不眠の夜を抱える辛さなどは無いのに、堂条が居ないというだけで淋しくて仕方がない。
毎晩の様に求められ、当たり前の様に抱えて寝てくれないベッドは、余りに広すぎて淋しくて雪月の胸を苦しくさせる。
送り迎えの車の中の一人の後部座席は、本田が気を利かせて楽しく話しかけてくれても、その一瞬一瞬に空虚な感情を沸き起こさせる。
これは何なのか雪月は知っている。
知っているけど決して表に出さない。
自分は堂条の権力と強大な力に、依存して逃れているのだと言い聞かせる。
そうでなければ、きっともっと辛く苦しい思いをしてしまうから……。
あの兄や大人達に与えられた苦しみよりも、きっと辛い思いをしてしまうから……。未だに忘れられないあれよりも、堂条がする事はきっと全てにおいて、雪月には堪えられない苦しみとなってしまうから……。
そんな鬱仏とした日々を過ごしていたある日、ちょっとした事件が起きた。
授業を終えて本田の迎えを待っていた時の事だ、見知らぬ男達が数人で車に雪月を引きずり込んで連れ去ろうとしたが、雪月の側にいた分家の子息令嬢達が、それを目敏く見つけて阻んでくれたので、多少の小競り合いとなってしまった。
かなり屈強な男達だったが、それを目撃した学生達が加勢して、本田が来た時には男達が這々の体で去って行く所だった。
分家の子息や大学生に、多少の怪我人は出たが大した事は無く、雪月は無事本田に手渡された。
堂条の過剰過ぎる杞憂が現実となったわけだが、実直な本田が責任を感じたのは言うまでもない事だったが、とにかく大学の仲間のお陰で、大事に至らなかった事だけは雪月にも、そして本田にもラッキーな事だった。
しかしその反面で、雪月のあらぬ噂が流れる事は必定だ。
まあ、堂条に関わりのある大学だ、本当であれ嘘であれ学生達は、表立って口にしないだけで、雪月の事は知っているだろう。
醜聞を意に返さない堂条と、醜聞にまみれた父を持つのだ、そして我が身も大人達の手垢にまみれている……。
それでも雪月は、堂条が決めた事だから通い続けて卒業する。
蔭で何を言われていても……。
堂条が与えてくれた、陽の当たる場所だから……。
あの地獄の様な場所から救い出して、与えてくれた場所だから……。
あの日から本田は雪月が授業を終える前に、車を門の前に止めて待っている。そして今まで顔も知らなかった学生達が、雪月を守る様に側に居る様になった。それは堂条の分家の子息令嬢という同輩達も居たが、そうではない学生も居た。彼等にとってそうする事が、どういう事なのか雪月には解らないが、ただ何気と気遣ってくれている事は解った。反してそれを好奇の目で見る者も居れば、反感を持つ者も居る事も知っているし、分家の子息令嬢とて例外ではない事も知っている。
「本田さん、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。あれから変な車なんて来ないもの……」
「……いえ。あの時の事を思うと……」
本田は、ハンドルを握ったまま黙った。
本田も雪月の境遇を、知ったのかもしれない。それとも綾瀬から聞かされていたのか……。
拉致されれば、どういう事をされるか想像したのだろう。
それが兄なら何を目的とするのか……それが堂条に対しての何かならば……どの道雪月は、以前より酷い境遇に陥る事は確かな事だ。
それを思えば雪月は、俯く事しかできなくなる。
正妻と嫡子を苦しめた女の子供だと、因果応報と思う人々が大半だろう。
母は善良な母子からその夫と父を、財産の為に色香で奪った悪女なのだから……。そしてそんな女の血を受け継ぐ、淫らな子供が今度は堂条の関心を一心に受け様と、手練手管を使って媚びていると言われても、雪月にはそれを否定する事ができない。だって本当は、そうなのかもしれないのだから……雪月は堂条に庇護される為に、媚びている様な態度を知らずに取っているのかもしれない……。
雪月は自分が、男にどんな態度を取るのか解らない。散々弄ばれた雪月は、そういう風な態度を、望んで取っているのかもしれないし、そういう何かを放っているのかもしれない、と思っているからだ。だってここ暫くの、大きなベットでの一人寝は寂しくて、堂条の温かな体温を求めてしまうのだもの……。
根岸の屋敷に着いて車から降りると、素子さんが慌てて出迎えに出て来た。
「ただいま……」
「雪月君早く早く……」
素子さんは手を取ると
「瞳眞さんがお帰りなのよ」
と手を引いて急かす様に言った。
「……堂条さんが?帰国までまだ、日にちありましたよね?」
「この間の事が、耳に入ったんでしょう?喬眞が報告でもしたんでしょ?」
「えっ?じゃあ、綾瀬さんも?」
「それが、瞳眞さんだけなのよ……だから早く……」
素子さんの慌てぶりで、堂条が至極不機嫌である想像がいった。
……本田さん怒られる?怒られた?……
雪月は実直で人の良い本田がずっと責任を感じて、落ち込み気味だったし、立場が悪くでもなったら……と不安になって慌てて大広間に向かった。ドアを開けて中に入ると、堂条は立って窓から外を眺めていた。
確かにちょっと……かなり不機嫌そうだ。
「お帰りなさい」
雪月は極力明るい声で言った。
それでも堂条の不機嫌が気になって、少し声が上擦った。
「ああ……」
堂条はそう言うと、窓の外から雪月に視線を向けて、それでも眉間に皺を作った。
「あ、綾瀬さんは?」
雪月は強張る顔容を無理に笑ませて言うと、堂条は素早く歩み寄って抱き寄せた。
「……すまない……危ない処だったな……」
「……大丈夫……分家の人や本田さんが……」
堂条は物凄くきつく抱きしめると、暫く黙ったまま雪月を抱擁した。
「……本当にすまない……俺のミスだ……」
「えっ?」
堂条はそう言って、尚も抱きしめている。
「……堂条さん?」
「……俺が雪月を連れて来てから、痛い目に合わせたヤツの仕返しだ……お前に酷い事をした者達を、思い知らせてやった……それが原因だ……根に持った奴らだ。今回だけはヤバかった……俺に思い知らせる為なら、何をしたかしれない……」
苦しそうに話す堂条を見て、ただ事では済まなかった事を思うと、雪月は躰が強張った。
「……本当にすまなかった……」
堂条が抱きしめるから、だから雪月は強く強くしがみついた。
雪月は堂条に抱きしめられる事を知ったから、だからきっとあんな境遇はもはや堪えられないと思ってしまう。温かくて優しい抱擁を知ってしまったから、だからきっと一瞬で心が壊れて散り散りとなってしまう。もはや雪月は堂条のこの腕から離れる事ができない。この腕の温もり無しに生きては、行けないと悟ってしまった。
雪月は微かに身を動かして、堂条の唇に唇を付けた。
そして雪月は確かに納得した。
……そうだ自分は堂条の関心を得る為に、浅ましくも媚を売る事も厭わない……
それは身を守る為でも、贅沢をする為でもなく、ただ堂条の気を引きたいだけなのだ。棄てられたくないのだ……飽きられたくないのだ……
雪月は激しく堂条にすがりついて、今までに無い程の甘い声を上げた。
「僕が心配で、大事な仕事を綾瀬さんにやらせて来たんですか?」
久々の食卓で、雪月は申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。
昨日まで本田が居た席には、本田は居ない。
本田には堂条ご自慢のレストランの、招待券が与えられているそうだ。
本田は堂条の不興を買う処かかなりの信頼を得たらしく、綾瀬が帰国したら人事異動があるらしい。と素子さんが嬉しそうに言っていた。
「ああ……俺の責任でお前が危なかったんだ、仕事どころじゃないだろう?」
久々の和食に舌鼓をうちながら、真顔で堂条が言う。
「だって堂条さんが、ずっとしたかった仕事ですよね?」
「ああ……ずっとしたかった」
そう言うと堂条は、箸を止めて雪月を見つめた。
「殆どの根回しは済んでる……後は綾瀬が居ればいい事だ……」
「……堂条さんがしたかったんですよね?」
すると堂条は、フッと笑んで箸を進めた。
「……俺がしたい事は、綾瀬がすれば良い事だ」
「えっ?」
「綾瀬が居ればいいんだ……全てが事足りる……それよりあの時、お前を守って怪我をした学生がいる様だな?」
「ああ……はい。大した事はなかった様だけど、次の日に本田さんがお詫びに行ってくれました」
「……そうか……どうせ綾瀬が戻る迄時間はあるんだ、雪月と二人で礼に行かないとな……」
「えっ?堂条さんがですか?」
「当然だろう?これでも一応、お前の保護者代わりだからな……」
堂条は再び箸を止めて言った。
雪月はそういう事ではなくて、堂条がわざわざ自らそんな面倒な事をしてくれるとは思わなかったから、だからちょっと吃驚した。
今までの堂条の雰囲気と綾瀬の言い方からしても、とても堂条が自分で礼や詫びという事をする人物には思えないからだ。
そう思う事自体が、きっと堂条に失礼に当たるのだろうか……とちょっと反省してしまう雪月だった。
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