第3話

「ねぇ……綺麗になったかな?」


 雪月がペタリと貼られた絆創膏を触りながら言った。


「気になるなら、気が済むまで手術するか?」


 堂条が気にやむ雪月を抱きかかえて聞いた。


「僕は見えないから全然気にならないけど、堂上さん厭でしょ?」


 縋る様に問われると、堂条が困惑してしまう。

 気にならない訳ではない。

 明らかに残っていれば苛立ちへと変わる。

 だがその苛立ちも、傷痕が薄くなるにつれて小さな疼きと変わった。

 痣を残したヤツ等には、堂条が与えられる制裁を下した。

 だから傷痕が薄くなれば苛立ちも疼きと変わった。


 を見れば雪月の数年の痛みと屈辱が分かる。

 何人もの大人達に弄ばれた年月が残されている。

 何年だ?三年か五年か?……それ以上か?

 消えればその数年が消える訳ではないが、堂条がその数年を思い馳せる事はなくなる。現在いまの雪月の可憐で可愛らしい笑顔が、その年月を堂条に思い起こさせないでくれる。

 細過ぎる程に細く、無理をさせれば折れてしまいそうだった小さな躰が、少し肉をつけしっかりとしたものとなってきた。

 今にも折れるかと思われた肢体が、しなれば弾き返す枝の様に堂条の体をしっかりと受け止める。激しく揺らせば、枝も葉も花も大きく揺れてをやり過ごす。そんなしなやかさとたくましさを持ち始めた。

 そして明るい声音と笑顔が、堂条の苛立ちを鎮めてくれる。



 拐われる様に連れてこられた当初、当然の様に雪月は怯えた。

 数年に渡って陵辱され続けた精神が、躰よりも恐怖心に苛まれている。

 男に犯され続けた少年の心は、凍りついて脆かった。

 何かの拍子に一瞬にして弾けて、粉々になりかけていた。

 激しく求める堂条の行為は、今迄の大人達のと同じだ。

 それ以上激しくて、激しくて、激しくて……。


 …………………。


 何回も何回も同じ男に組み敷かれて、激しく揺さぶられ激しく突かれて、雪月は今迄の大人達と違う感覚を覚えた。

 今迄の人達と違う何か……。

 同じ様に絶え間無く組み敷かれるのに違う……。

 一つ直ぐに理解したのが、激しいが決して雪月が厭だと思う事を強いる事が無いという事。

 躰に痛みを与えたり、縛りを強要したり、堪え難い苦痛を残す薬を与えたり、恥辱としか思えない格好を強いられたり……それかそれから……雪月は堂条の腕の中で、グッスリと眠る事を覚えた。この男の腕の中で、ずっと一人でうなされ続けた悪夢を見なくなっていた。そう、雪月は夢の中でも大人達に陵辱され続けていたのだ。

 そしてよく眠って目を開けると、堂条は覗き込む様に雪月を見つめて微笑んだ。

 時には白く形の良い歯を覗かせて笑いかけた。

 雪月はその時堂条にしがみついた。ただひたすらしがみついた。

 そうすれば堂条がこの先どうするか解っていたが、雪月は思わずしがみついた。そうすれば自分は砕け散る事が無いと、そう思いたかったのかもしれない。


 そしてそれは本当となった。

 連れて来られてから、時間も日にちも分からない程に、一つの部屋で相手をさせられたが、目覚めると堂条は居なくて、広過ぎるベッドと部屋に取り残されていた。

 こんなに広いベッドと部屋に居たのかと、日差しが眩しい程に差し込む部屋を見て思った。

 トイレも浴室も在る事は知っている。閉じ篭っていた間に使用した記憶があった。

 だがそれは微かな記憶だ。それ程堂条という男が離してくれはしなかった事と、雪月が堂条の腕の中で安らかに眠る事ができたという事だ。

 堂条に組み敷かれていない時は、雪月は眠る事ができていたのだろう。ここ数年悪夢を見ずに眠れた事はなかったから……。


「お目覚めですか?」


 長身の男がドアを開けて、満面の笑みを浮かべて言った。


「……………」


「堂条の秘書の綾瀬と申します」


「堂条?」


「お目覚めならシャワーを浴びてお支度をして、外においでください。食事を取りましょう」


 優しい声音の綾瀬は、静かに微笑んで視線をそらせたまま言って出て行った。

 そして直ぐにその理由を理解した。

 一糸纏わぬ雪月が、身を擡げてベッドに座していたからだ。

 さすがに乱れたベッドに、気怠るそうな雪月を見れば、同性といえども目を背けるのは当然だ。

 立ち上がるとあちこちが痛い。

 痛いが今迄の様な感覚とは少し違った。

 シャワーを浴びると、鏡に映し出された躰に赤い痕が残るが、そんなのは何時もの事だ……。シャワーを浴びながら雪月は凝視した。その余りにもの数に驚愕した。


 ……そう言えば、薬を飲まされてもいないのに……


 と思い出される自分の姿。

 回数が増える毎に、雪月の興奮が増した。

 そんな事は今迄無かった事だ。まして回数が増えれば尚の事……。

 浴室を出ると着替えが用意されていた。

 着心地の良い衣服に腕を通して部屋を出ると、に綾瀬がテーブルに置かれた食事を前に座していた。

 広々と広がる部屋には、今いた部屋同様に必要以上に家具は置かれておらず、調度品も余り無い。


「ちょうど食事が届いた所なんだ」


 綾瀬は雪月を認めて手招きをする。


「堂条さんは夢中になったら半端ないからね。大変だろうけど覚悟して」


 と言って笑った。

 食事をしながら綾瀬がそれとなく、二日近く抱き合っていた事を知らせた。

 この綾瀬という男は、ソツなく嫌味なくそれは上手い事堂条の悪癖を語った。

 異常な程執着心が強く、のめり込む程に一つの事に夢中になるらしい。

 常人としての常識が欠如しており、とにかく気に入ったものにのめり込む。

 その対象が雪月である事だ。

 雪月はその対象が自分である事に安堵を覚えた。

 何故かは理解できないが安堵した。

 異常な程の執着心を持つのならば、堂条は明月の様に複数の大人に雪月をあてがったりしないだろう。そう思いたかっただけかもしれない……。

 癖のある複数の相手は心を病ます。それも明月は雪月を痛めつけたいのだから、悪癖と呼ばれる大人が多数だったし、それを明月が容認するから、当たり前の様にどんどんエスカレートして行っていた。心身共に限界に来ていた。

 このまま自分は、病んで行くのだろうと覚悟した。

 だから堂条に連れて来られても変わりはしない。変わりはしないがやはり恐怖は半端のないものだった。今迄が今迄であれば、それ以上のものを想像する。あの人達以上の大人達が存在する事も、大人達の話しから想像もできていたからだ。


 食事は豪華で美味しかった。

 明月に管理されていた、ここ数年で口にした食べ物の中で一番美味しかった。だが雪月の小さく胃は、そんなに一気に食べれるものでなくて綾瀬を驚かせた。


「これ以上堂条さんを怒らせては、君のお兄さんはタダじゃすまないよ……」


 綾瀬は同情する様な表情を、崩さずに雪月に言った。


 ……堂条、堂条……


 広いベッドに横たわって、雪月は聞いた事のある名を繰り返す。

 今だに帰って来ない堂条の代わりに、あの広いリビングに綾瀬が居る。

 それが不思議と安心感を与える。

 明月が居なくて、それに付随する大人達が存在しないだけで、安心感を与えてくれる。


 ……そうだ堂条という人だ……


 かつて父が口にした男の名前。

 何かあれば頼る様に言われた名。

 鏑木の名を出せば、きっと会ってくれると言っていた。

 それは高貴な家柄の末裔で、父が数回会っただけで気に入った若き当主だと言っていた。

 まだ子供であった雪月には、どれ程の人物であるかは知りようもなかった人物であったが、あの父が口にしたその人の名に涙が溢れた。

 父の言った様に頼っていいのだろうか?

 こんな自分を救ってくれるのだろうか?

 母方の祖父母ですらできない事を……?

 溢れる涙に視界を滲ませて、雪月は静かに瞳を閉じて眠りについた。





「ねぇ……」


 青いパジャマを着た雪月がベッドの縁に腰掛けて言ったのは、堂条が珍しくベッドに身を起こして何やら資料に見入っているからだ。


「ん?」


 雪月が側に居れば絶対視線を合わせて直ぐに抱きたがる堂条が、今夜は珍しく視線を向けてもくれない。


「ねぇ……」


「うん……」


 頷きながらも視線は資料に……。

 すると堂条はトントンと、空いているベッドの隣を叩いた。

 雪月がそれでも拗ねて動こうとしないと、再び同じ様にベッドを叩く。

 雪月は渋々立ち上がると、反対側からベッドに滑り込んだ。

 それでも堂条は資料に夢中で、雪月は手持ちぶたさに拗ね拗ね感が増していく。


「雪月?」


 堂条が真剣に見ていた視線を、雪月に向けた時にはふて寝の一歩手前であった。


「明日大学は?」


 堂条が真顔で聞くが、雪月は目を閉じて寝たふりを決め込む。


「寝てないのは分かってる。真面目に聞いているんだから答えなさい」


 呆れる様に言われてしまった。

 雪月は微かに笑みを浮かべて、堂条を仰ぎ見た。


「明日は……午後からだよ、どうして?」


「お前の家を買ったんだ」


「えっ?」


 雪月は唖然とする様に堂条を見つめた。


「一緒に見に行こう?」


「……僕、堂条さんと一緒に居るんじゃないの?」


「きっと気にいるから……の家だ」


 堂条が何時もの様に笑う。

 何時も雪月を抱いた後に、覗いて見せる笑顔。

 今夜は触りもしないのに、視線すら合わせてくれなかったのに……。どうしてそんな笑顔を見せれるんだろう?

 兄の明月と関わる大人達とは、堂条の処に来てから完全に縁が切れた。

 明月の恐怖からも大人達の恐怖からも解放された。

 だが雪月は、堂条無しで安心して眠れるのか今だに不安だ。

 堂条に抱えられずに、果たしてゆっくりと眠る事ができるのだろうか……。

 あの悪夢を見る事は無いのだろか?

 あの時の辛すぎる日々の夢……。


 今夜も堂条は優しく抱いて寝てくれる。

 この大きな腕に抱えられると、安心して眠れる。

 だが今夜は眠れない。

 堂条は雪月に家を買ってくれた。

 雪月が住む家?

 ずっと此処でこうして、堂条に抱かれる様にして眠れるものと思っていた。

 堂条の気紛れに過ぎなかったのか?

 それともこれは、元々雪月を憎悪する兄明月の策略なのだろうか?

 雪月の心の唯一の支えとなった瞬間に、雪月を突き放し精神を砕けさせる為の?

 それ程迄に雪月は堂条に依存している。

 生活面から精神面においてまで……。

 そうだ……憎んではいたが同じ父の血を分け合う腹違いの兄は、雪月に生きていく為に躰を代償として強いた。なのに堂条は赤の他人なのだ、躰だけで全てを背負ってくれるはずは無い。飽きられれば捨てられる。今まで彼が流した醜聞の相手の様に……何かを与えて捨てられる……その何かは家だったり金だったり地位だったり……。


「眠れないのか?」


 堂条が気づいて覗き込む。


「どんな家?そこに僕住むの?堂条さんも?」


 唇が乾く。しっかりと喋れない。


「きっと驚く……良い家だ」


「堂条さんも?」


 幾度も聞いた。だけどには返事をくれない。

 ただ堂条は唇を押し付けるだけだ。


「………………」


 雪月はとことん気が済むまで、堂条に問い詰めていい立場の人間ではない。

 堂条が決めた事に従う、ただそれだけの人間。

 ただ不安を抱きながら従うだけ……たとえそれがどんな仕打ちだろうと……。



 翌日綾瀬が運転する、車の後部座席に堂条と乗り込んだ。


「よく眠れましたか?」


「えっ?」


 綾瀬が何時も通りに優しく聞いた。


「堂条さんは言い出したら聞きませんからね……雪月君も吃驚したでしょう?」


「ええ、あの綾瀬さん……」


 雪月が綾瀬に声をかけた時に、綾瀬は車を出してハンドルを切った為、雪月の言葉は聞いていなかっただろう。

 車が走り出すと、堂条は躰を少し傾げて車窓に視線を向ける。

 それは堂条の何時もの癖で、大概が雪月の反対側を見る形となってしまうから、雪月も同様に窓の外に視線を向ける様にする。

 堂条は外を眺めるのが好きだ。そして何を考えているのか分からないが、兎に角飽きる事もなく眺め続けている。

 暫く走り続けて都会を過ぎると、長閑な田園風景が広がった。

 すると今度は雪月が夢中で眺めやった。

 何故か懐かしい光景だ……そう、両親と住んでいた処が、こんな田舎を思い浮かべる処だった。

 父は母の為に、都会から少し離れた処に家を建てさせた。

 そしてそこは両親の蜜月の棲家となり、そして雪月家族の幸せの場所となった。

 母が死に……それでも父が死ぬまでは……。


「着きましたよ」


「ここは?」


 雪月は車から降りる事もせずに、広く大きな庭に停められた車から、それは懐かしい思い出の家を眺めた。


「堂条さんが、鏑木に事業を一つ任せましてね、その代わりにこの家を譲り受けたんです」


「お前の家だ。鏑木を得たからといって、明月が所有できる代物じゃない。ただ見栄だか自尊心の為に手中に置いておきたいだけなら、俺が事業と交換してもいいだろう……どうせくだらない事で手放すのがオチだ」


 雪月は綾瀬に促される様に車から降りて家を見渡す。

 明月達が住む一等地に建つ豪邸には及ばないものの、美しいが奥ゆかしかった母に似合う家は、父の愛情の分大きかった。

 住んでいる時には、気がつかなかったけれど……。


「お前の家だ。住みたいなら住むといい……」


 堂条がまた悲しい事を口にする。甘える事を覚え始めた雪月を、突き放す様に……。


「はぁ?堂条さん?何を言っているんです?」


 呆れ顔の綾瀬が、堂条を見て言い放った。


「私にここをよく知る者を探させ、管理人として任せるつもりだ、と仰しゃいましたよね?……えっ?雪月君をここから大学に通わせるおつもりで?……だったら、私は朝何時に起きればいいんです?」


「いや……だから、雪月が住みたいと思った……らだ……」


「……だったらまずは、当人に確認してから支持をしてください」


 綾瀬はかなり本気で怒って、堂条を睨め付けて言う。


「いや、だから……どうする?雪月?」


 堂条が救いの眼差しを向けて聞く。

 雪月は微かに微笑んで、瞳に溜まる潤みを溢して、懐かしい我が家を眺めた。



 ……そうだ確かにここは、僕の家だ……


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