第2話

「会社に向かわれますか」


綾瀬喬眞あやせたかまさは、ミラー越しに後部座席の堂条を見て言った。


「ああ……」


堂条はフィルム施工の窓外の景色を見つめている。

この男は少し体を傾かせて、車窓を覗く癖がある。

これは幼い頃からの癖だ。

子供の頃はそれこそ車窓に張り付く様に眺めていたが、を何時も躾に厳しい祖母に注意を受けていて、そして幼かった堂条は抗う事も反抗する事もなく、それは子供のが存在しないが如く、祖母の言う事を素直に聞いていた。

現在いまの堂条を知る綾瀬は、当時の堂条を思い出して感慨深くなる。

当時の堂条が真の堂条なのか、現在の堂条が真の堂条なのか……と考えてしまうからだ。

祖母に余りにも抑え付けられて育った堂条……。その時の堂条は素直で純粋な子供だった。

貴い血筋に恥じる処の無い、それは清らかな子供だった。

反抗期もなく、名家の当主となるべき資質を兼ね備えた、確かにちょっと子供らしくは無い、それは子供だった。

難しい思春期も青年期も、彼は誰をも超える財閥の当主というべき人格者だった。

それがいつの事か?大学を卒業した頃からか?堂条の当主として君臨した時からか?老いても矍鑠として絶対的な存在の祖母が亡くなった時からか?堂条が今までの全ての優秀すぎる皮を脱いだのは……。余りに危険で危うい〝もの〟に取り憑かれたのは……。

綾瀬が気がついた時には、堂条は貪る様に〝愛人〟という存在を探し求めていた。

は恋人でも伴侶でもなくて、ただ〝愛人〟という堂条の中にある存在を探していて、その形やものが、幼い頃から側に居て育った綾瀬にも理解できないものだった。

堂条から発せられる〝愛人〟という名称は、ググって検索して出て来るものとは違うようだ。不倫とか囲うとか現地妻とか……そういった一般的に連想させるものではないだろう。何か心身共に彼が求める何か……。そしてなかなか手に入れられない何か……。

だが堂条はずっとを、求めている事だけは理解できる程に求めている何か……。


「……そう言えば、新たに計画を進めている事業に、鏑木を入れますか?」


「当然だろう?鏑木を入れるんじゃない、鏑木にやらせろ」


「鏑木に?……全面的にですか?」


「鏑木に……だ」


「……譲る……という事ですか?」


「譲る?……に譲ってどうする?」


「ええ、だから……」


にやらせて、後で頂けば良いだけだろう?」


「…………」


「どの道鏑木は私のだ。鏑木清月に会った時から私の私が気に留めた時から、清月が逝去すれば私のだ。いずれ雪月に与えるなら、あの事業は鏑木にやらせたい」


綾瀬は黙ってハンドルを取った。

現在計画している事業は、堂条が珍しくやる気になった事業で、大体の根回しは済んでいる。

ただそれに乗っかって、事を運べばいいだけのものだ。

殆ど分家や子飼いの者達に働かせて、ただ堂条という名を持って君臨するだけの存在である堂条が、珍しく自身で動いて数多とある古よりの縁故を使い、根回しと金を使って固めた計画だ。手と足となって動く人間がいればいいだけになっている、そんな簡単な案件を堂条の一族の者ではなく、赤の他人の鏑木にさせるつもりだとは……。たとえ先々堂条の物となるにしても……。

否違う……。そこまでしたから鏑木なのか?

近い将来、堂条がやっと見つけた〝愛人〟に相応しい雪月に与える鏑木だから、堂条が手掛けたといえる事業を含みたいのだ。

つまりそこまで堂条がする相手は、雪月以外の誰も存在しないという事か……。

綾瀬はハンドルを握りながら、大きくため息を吐いた。

この兄弟の様に育った男は、兎に角凡人の綾瀬とは違う。


綾瀬の父は今は亡き堂条の父と共に、堂条の祖父に気に入られて教育を受けた私生児だ。つまり祖母が、誰とは分からない男との間に誕生させたのが、綾瀬の父だった。だがその相手はたぶん、堂条の分家の誰かだろうと言われている。つまりそれを知った祖父が哀れな親子を引き取り、家の使用人として雇ったのだろうと祖母は読んでいた。そして祖父はそれから直ぐに逝去したが、祖父をこよなく尊敬していた祖母は、祖父が決めた事を覆す事の無い従順な性格だったので、綾瀬の父は堂条の父の側近の様な扱いで共に教育を受けた。

つまり堂条の当主の側近となる人間には、それなりの教養が不可欠であるという、祖母の偏見から厳しく同等の教育を受ける事ができたのだ。

そして綾瀬の父は、祖父の見込み以上の優秀さで堂条の当主を支え、当主を亡くし幼い当主を抱える祖母を支えた。

堂条家の尼御前に見込まれた綾瀬の父の子供である綾瀬は、堂条の兄という立場を許された。

余りに格式の高い堂条の遊び相手は、分家の子息ものか子飼いの子息ものだが、常に側にあって手本となり支えとなるのは綾瀬であったし、それ程までにあの気難しい祖母が認める程に、綾瀬はできが良い優等生であった。

だから堂条が、祖母の厳格過ぎる躾にありながら、綾瀬が純真無垢なイメージを抱くのは、ただ綾瀬の存在あっての事である、とは当の綾瀬は思い浮かばない事だ。


そんな幼い頃からの付き合いで、普通ならば兄弟の様な感情を抱き合う存在であるが、綾瀬は父に対する恩義も含めて、どうしても堂条に主従の感情しか持ち得なかった。否、持っていても表す事が憚れたのかもしれない。

だが堂条は綾瀬を誰よりも信頼する処があった。

それが兄弟の様な……というものなのかは、この堂条に分かるはずはなくて、気に入れば兎に角気にいるのだから、兄弟の感情云々よりもが先に立っていると云った方が早い。

分家筋の者達よりも、妙に懐いてくるが煩いだけの惟雅よりも、綾瀬に対する信頼は、堂条の中で一番である事だけは確かだ。

そして綾瀬の母親は堂条の使用人で、綾瀬の父親と結婚したもののそのまま夫婦で祖母を支え、そして堂条を育ててくれたもう一人の女性であると云ってもいい。

厳格な祖母は、お気に入りの綾瀬の父の妻である綾瀬の母に、堂条の身の回りの世話をさせていたから、実質的な育ての母と言っても過言ではないだろう。

だから優秀なまま現在に至る綾瀬と、何処かで変な風に変わってしまった堂条を、変わらずの愛情で優しく包んでくれるのは綾瀬の母だけだ。

彼女だけは堂条の醜聞にも、決して小言も言わずに変わらずの優しさを与えてくれる。


「午後は病院だからな……」


車窓を眺めながら堂条が呟いた。

今朝から何度言っているのか……。

綾瀬は呆れ果てて言葉も出ない。

雪月も言っていたが、幾度となく繰り返している。


「特別室を用意させてます。無論堂条さんもご一緒ですよね?」


「当たり前だ、何かあったら困るだろう?」


……何かあったら?……


刺青の除去、と言っても殆ど取り除いていて、取り除いた痕を綺麗にする手術なのだが、堂条の知り合いというよりも、綾瀬の学生の時の同級生が腕の良い整形外科医で、堂条が支援する大学病院に勤めていて、どうしても雪月の躰に残すという痕を取り除きたい堂条が、綾瀬に口利きをしてもらい予約が目一杯入っているにも関わらず、雪月の手術を担当してもらえる様に融通をきかせてもらった。

堂条が〝頼む〟という行為を行ったのは、たぶんこれが初めての事だろう。


「今回は以前より簡単だそうですよ」


「……と言っても、施術するのは変わりない。何があるか分からない」


雪月が現れて始めて知る堂条の庇護欲だ。

堂条に思い遣りは存在しなかった。

厳格過ぎる祖母に育てられた堂条には、思い遣る存在がいなかった。

祖母によって母を実家に帰らされた堂条には、思い遣ってくれる者がいなかった。

綾瀬や綾瀬の母の思い遣りという物は、堂条にとって与えられて当然の主従関係の気遣いと変換される。主人に仕える者は、主人の為に気遣って当然であるからだ。

そしてたぶん雪月に対する思い遣りも、堂条の執着心によるものであるかもしれないが、それでも思い遣れる事とか、心遣いとかが垣間見れるというのは、綾瀬にとっては確かに喜ばしい堂条の変化であった。


雪月の白肌に残された悍ましい黒い刺青。

それを確かに消すには、やはり皮膚を除去するしかない。

そして健康な皮膚を採取して植皮するのだが、雪月の場合広範囲の大きな物でなかったにしろ、小さい物が幾つが存在した。

つまり数カ所は皮膚を除去され、当然の如く痛みも存在した。

その様子を見ていた堂条が、産まれて初めて愛する者の為に心を痛めた。

いじらしくも痛みに堪える雪月に心を痛めたのだ。

そして医者が言うより長く入院をさせ、堂条が気が済むまで居続けて、雪月の術後経過が悪い筈は無く、雪月が退院したいと懇願したのでどうにか退院してくれた。

それからも傷痕を消す手術はしているから、もはや殆ど気にならない程にまでなっているのだが、堂条はそれでも気が済まない様で施術をさせる。

それはもはや雪月の傷痕が気になるのではなくて、それを取り除いて雪月の心を癒したいのだろうと思う様なった。だが雪月は思いの外、この堂条の異常過ぎる執着心のお陰で、早くに立ち直っているのだが、堂条の気が収まらまい。一旦拘り出したら譲る事を知らない堂条は我を通す。もしも綾瀬の友人が無理だと判断すれば、堂条は他の医者を探させ海外にまで行きかねないだろう。有り難い事に友人が綺麗にすると言い切ってくれたので、綾瀬を始め当事者の雪月がホッとしているという処が笑えなくも無い。

堂条が連れて来た当初、その余りにもの堂条の執拗さに、雪月は今迄の境遇から恐れをなしていた様だったが、毎夜堂条と躰を合わせて行くうちに、今迄の大人達とは違う〝何か〟を感じてくれた様だ。

たぶんそれが堂条の摩訶不思議な愛情なのだが、を理解できたという処で、綾瀬は雪月の辛く過酷であった数年を思わずにいられなかった。

普通に幸せに暮らしている人間ならば、きっと堂条の奇妙な愛情は、理解する事すらできないものであったろうと想像できるからだ。

余りに辛く過酷で苦しい生活を余儀なくされていた雪月には、堂条の歪な愛情すらも〝愛情〟というものにちゃんと感じられたのかもしれない。

特殊な嗜好の好奇の対象としての役割ではない、愛する対象として……。

そしてそんな堂条の愛情すらも、雪月にとっては救いだった。

堂条のを求めるその愛情は、余りに痛めつけられた雪月の心を不思議と癒して行った。余りに執拗で異常なまでの愛情が、傷ついた雪月を救うなどと考えられない事だが、雪月にはそれ程強烈な愛情が必要だったのかもしれない。

雪月の心の変化に、堂条が変わって行った。

雪月に対する接し方が、雪月の望むものへと変わって行った……。

堂条が……。


綾瀬はバックミラー越しに堂条を認めて、飽きもせずに車窓を眺める姿を一瞥した。

朝から気にする病院。

雪月の肌に微かにしか残らないあとを気にする堂条にとっては、とても大事な事柄なのだろう。

そんな事柄がある事自体が、堂条にはなかった事だ。

自分の事すら、気にかけた事のない人間なのだから……。


「堂条さん、三浦は今回で綺麗になるだろうって……」


すると堂条はミラー越しの綾瀬と目を合わせた。


「えっ?あと二回は……」


「雪月君の肌が余りに綺麗だから、堂条さんが納得するまでは……って事で、普通なら今回で綺麗になるだろうって……」


「そうか?」


堂条はそれは嬉しそうな笑顔を見せた。

まるで子供の頃見た、あの純真無垢な笑顔だ。


「……あなたが拘れば、もう一回……」


綾瀬は念を入れる様にゆっくりと言う。

すると堂条は視線を逸らした。


「雪月が納得すれば、今回で終わりでいい……」


窓外に視線を向けながら呟いた。


「何よりです」


綾瀬は再びミラーを見て笑んだ。


堂条が雪月の負担を考えて譲歩するとは……。

まるで子供がやるべき事をちゃんとこなせた時の様に、綾瀬は驚きと喜びを持って堂条を見つめた。

雪月の負担とか苦痛とかを思って、初めて堂条が拘りを譲歩したのだ。

何という成長だろうか……。

……と三十路も過ぎた大人の男に、感嘆している自分が可笑しくもあるが、綾瀬は本当にそんな感情を持った堂条を嬉しく思っている。

それが兄としての感情である事を、綾瀬は知らない。

綾瀬もまた堂条同様に不器用だから、主従の感情である以外を、堂条に感じている自分を認める事ができないのだ。

幼い頃からずっと一緒に育った。それも母に育てられれば、乳兄弟とか義兄弟とか世間ではいうものだが、その感情自体を認めようとしないから、綾瀬は堂条に兄弟愛を持っている事を知らない。

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