∞第11話∞

「たぁ、ま」

「おじゃましまーす」

 とはゑに開けてもらったドアから中をうかがいながら、お家の人がいなかったらいいなという期待をこめてゆらのは小さな声で訪問を告げた。

 しかしゆらののあわい望みは、奥からやって来る足音に打ちくだかれた。

「お、おかえり、とはゑ。あ、あと、いっ、んっ、いらっしゃい、ゆらのちゃん」

「こんにちは、おじゃまします。これ、うちの母からです」

 やって来た千秋に、手土産を持たされるのになれているゆらのはなめらかな説明といっしょに米袋をちょっと上げて主張した。

「え……、そ、それ、持って来たのかい? おも、重かっただろう?」

「いえ、これくらいなんでもないですよ」

 おどろきと心配でメガネをずらす千秋 に向けて、ゆらのはにこやかにパンパンの米袋を持ち上げた。

「台所まで運んじゃいますね」

「あ、ま、待って。僕が運ぶよ」

 米袋を持ったまま移動しようとしたゆらのを、千秋は制止する。

 ゆらのは一拍だけ千秋を見上げて、平気なのになぁ、と不満そうに米袋を千秋の足元に置いた。

 千秋が身をかがめて、膨れ上がった米袋にうでを回した。

「ふっ、ぐっ」

 千秋がうでに力をこめると、米袋は持ち上がるでもなくかたむき、千秋が抱え直そうと態勢を変えると横倒しになった。

 しっかりと口の結ばれた米袋は中身を一粒もこぼさずに、どでんと小川家の玄関に寝転がる。とはゑの平坦な瞳が、父親の手から離れた米袋をまりに見る。

「あの、あたし、運びますよ」

 そう言ってゆらのはひょいと千秋が持ち上げられなかった米袋をかかえて玄関を上がった。その頼もしい背中を小川家の親子が見送る。

「ゆ、ゆらのちゃん、力持ちだね」

「うん」

 ぼう然とつぶやくお父さんに、ほこらしそうにうなずいてから、とはゑはちょこちょことゆらのの後を追いかけた。

 けれど一回リビングの中に入ったとはゑが、ちらりと顔を千秋に見せる。

「おと、さん。じゃま、だかぁ……お部屋ぃ、いってて。こっち、来なぃ、でね」

 愛娘にじゃまもの扱いされて、千秋は心臓を雷で打たれたようにのけぞった。

 床にくずれ落ちるお父さんを見て、とはゑは目を細める。

「のぞいちゃ、めっ、だかぁ、ね」

 とはゑはもう一度念を押してから、ぴしゃりとリビングの戸を立てて千秋をしめ出した。

 とはゑが台所に到着すると、ゆらのはその真ん中で米袋を抱えたまま立っていた。

「とはゑ、どうしたの?」

「ん。おとぅさ、部屋に、もど、もらった」

「すごい、こんなすぐに。とはゑ、強いのね」

「んぅ?」

 強いのはゆらのちゃんだよ、ととはゑは首をかしげた。

 でもゆらのだと自分の両親にどこか行ってもらうのにあれこれ説明しないといけないし、それにうまく未言みことのこともごまかさないといけないし、とにかく一人になるのがいつも大変なのだ。

 とくに妙乃たえのは無言のままずっと目の前から動かないから、ゆらのは歩き出したらなに食わぬ顔で後をついて来るんじゃないかと冷や冷やしてしまう。

「あ、そうそう。お米、どこに置けばいい?」

 ゆらのにたずねられて、とはゑはランドセルを背負ったままちょこちょこと歩き出した。

 そして炊飯器のあるラックのわきを指差す。そこにはビニール袋に入って半分に減ったお米が置かれていた。

 ゆらのはその横に、茶色い紙袋に入ったお米を置いて並べた。

 とはゑはゆらのが持っていたほうの米袋に近寄って、口をしばっている平たい紙紐をほどいて折り畳まれているのを開いた。

 そのとたんに、ふありと甘いお米の香りがただよう。それがうれしくて、とはゑが体をゆすった。

「お母さん、農家さんのお手伝いをよくしててね、お米とかお野菜とか果物とかいっぱいもらうの。それでよくみんなにおすそ分けしてるんだ。おいしいよ」

 とはゑは、ゆらのに振り返って、こくこくと小きざみにうなずいた。早く食べたくって、その期待でもうお腹がいっぱいになりそうだった。

「かねー」

 そんなとはゑのランドセルからお米の中へ、未言未子が飛び込んだ。なんだか楽しそうにお米の中で水浴びするようにはしゃいでいる。

「あ」

 ゆらのの口から声がはじけて、とはゑがまた振り向いた。

 ゆらのがとはゑに、ひとつうなずいて見せる。

「これの正体、わかったかも。でも」

 ゆらのはリビングに続く戸を、そしてリビングの向こうを気にして目を向ける。

 とはゑがお願いしたからと言っても、なにかの用事にだれかがこっちに来るかもしれない。なにしろ、ここは台所だ。おやつとか飲み物とか、人が何度もやって来る場所だ。

「だれも来ないようにしないと。无言むことでかくす?」

 ゆらのはそう言って流しの上の窓を見る。それを開ければ外から无言も入ってこれるだろう。

「无言は人払いには向きませんの。あれは忘却ですもの、入ってきた事実を失くすにはいいですけど、そもそも来ないようには出来ないの」

 芽言がとはゑのランドセルからしゅるりと出て来て、ゆらのの作戦のあやまちを指摘した。

 ゆらのはむぅ、となやましそうに口をとがらせる。

 芽言はとはゑの肩の上に陣取って、とはゑの顔に向けて首をのばした。

「人を寄せ付けないなら、上光かみみつがいいですの」

 芽言の言葉に、とはゑはぱちりとまぶたを切った。

「そっか。上光は光を隠す雲でもあるもんね。なんか上光万能過ぎない?」

 ゆらのはちょっとずるくない、とすねてうでを組む。

 とはゑはそうかな、と首をこてんとたおした。

「上光は未言総てに通じる未言であり、またこの世の凡てに通じる未言ですの。未言の内でもその威光勢力が別格ですのよ」

 んぐ、とゆらのは押し黙った。上光があやかすとかとかと同じで強大な存在であるのは両親から聞いている。

 けれどそれに不平を言った上に他人に指摘されたのは、ゆらのの小さなプライドを引っかいた。

「ま、まぁ、いいわ。とはゑ、よろしくね」

 ともかく、上光を呼ぶのはとはゑに任せるしかない。

 とはゑはゆらのにしっかりとうなずいて、ランドセルを床に降ろした。

 とはゑが、両の手のひらを、ゆっくりと合わせる。

 その間に、鴇色のやわらかな色合いをした本革の栞が、ランドセルから勝手に飛び出して宙を泳ぎ、ひらりと納まった。

 とはゑは、祈りをこめて、瞳を閉じる。

 深くはいた息が、台所にしみ渡り耳を打つ。

 その音のふるえが収まり、しじまが満ちた瞬間に、おごそかにとはゑは氷銀ひぎんの瞳を開く。

〈未だことばにあらざりけるを〉

 紙袋に詰まったお米に体の半分をうもれさせた未言未子が、とはゑの顔を見上げている。けれどとはゑの意識はもっと広くもっと遠くにあった。

〈かつて納めたりし書よ〉

 とはゑの手のひらの中で、本革の栞がじんわりと熱を持ち、そしてふくらんでいく。

 とはゑは、広がろうとする栞に逆らわず、合わせた手のひらを、芽吹きのように開く。

〈今再び、命が誓い願う祈りを綴るに相応しき姿を想い象れ〉

 雀が砂浴びをするのに翼を広げるのをまねて、とはゑが腕を開いていく。そうして生まれた空間の中で、栞は大きくなり、表と裏に別れて開き、ばさばさとその間に白紙のページをめくり復元していく。

未言邂想リフィール!〉

 謳うように、とはゑが凛音りんとをひびかせた。

 その幼いひびきは雀のさえずりが遠くからでも耳控みみひかえるように軽やかに飛んでいく。

 三千のページをはためかせていた未言草子みことそうしは、淡い鴇色をした本革の表紙をぱたんと閉じて、全てのページを今ここに綴じた。

 とはゑが左手を差し出せば、執事のようにうやうやしく、その手のひらを乗る。

 とはゑの氷銀の瞳がメガネの奥で光をともした。

〈未だことばにあらざる者よ〉

 窓も戸も閉め切った台所という限られた空間で、未言草子は風にあおられたようにページをめくる。

〈未だことばと語られぬ事よ〉

 未言草子のページが開き閉じるたびに、光が吹き出してとはゑの長い黒髪をおどらせる。

〈その想い記されしページを芽来めくれ〉

 一つの見開きにいたって、ぴたりと未言草子は動きを止めた。そのページに綴じられた未言はとはゑの呼びかけを静かに待っている。

〈上光〉

 未言草子から黄金の光があふれる。

 その光に映し出されて、生地の光る巫女服をまとった上光の未言巫女が宙に浮かんだ。天井のある狭い場所なので、浮かぶ高さはとはゑの顔くらいであるけれども。

 上光の未言巫女が目を開くと同時に、台所の空気がきゅっとすぼまるような感触がした。

「これで良いかの?」

 力を示した上光に、二人の未言少女は揃ってうなずいた。

 これで心置きなく、お米にうもれてくつろいでいる未言未子の正体を明らかにできる。

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