♪第6幕♪

「それでは、教科書を開きましょう。二十ページです」

 担任の國分先生の声は大きくて聞き取りやすい。

 教室はすぐに紙をめくる音でいっぱいになった。

 ゆらのも四年生になって一回り厚くなった国語の教科書を開く。

 どの学年でもそうだけれども、新年度最初の国語は声を出す授業が多い。

 一年生のときは、絵を見て何が書かれているか、となりの子と話した。

 二年生は春のお話「ふきのとう」。

 三年生は谷川俊太郎の「どきん」。

 そして、四年生は――

「くさの、しんぺい」

 ゆらのが小さくつぶやいたが、後ろの席のとはゑから反応はなかった。

 教科書によれば福島の人らしい。しかし出身地の欄にはゆらのたちが住む場所からずいぶん離れた町の名前が書かれていて、くわしくはわからなかった。

 草野心平「春のうた」。

 見てすぐにわかるのは、とはゑの詩に比べると、ずいぶんやさしい言葉が多いということ。「つるつる」だの「ケルルン」だの、どこか幼いようにも思えた。

(……四年生って、こんなものなのかしら? 音読するのも簡単そう)

 すると、それを見透かしたかのように國分先生の声が飛ぶ。

「まず、先生が一度読みます。聞いてみてどう感じたか、あとで聞きますよー」

 ゆらのはタイトル部分に指をそえると、先生に声に合わせて文字をなぞった。

 教科書をもらったその日のうちに中身には目を通していたものの、その人差し指はゆっくり動く。


  春のうた  草野心平


  かえるは冬のあいだは土の中にいて春になると地上に出てきます。

  そのはじめての日のうた。


  ほっ まぶしいな。

  ほっ うれしいな。


  みずは つるつる。

  かぜは そよそよ。

  ケルルン クック。

  ああいいにおいだ。

  ケルルン クック。


  ほっ いぬのふぐりがさいている。

  ほっ おおきなくもがうごいてくる。


  ケルルン クック。

  ケルルン クック。


(……む?)

 ゆらのは一つ目の「ほっ」あたりで思わず首をかしげた。

 一瞬後ろを見れば、相変わらず表情のない とはゑがいる。

 他のクラスメイトたちも皆びみょうそうな顔だ。

 先生の音読ははきはきとしていて聞き取りやすかったが、ただそれだけだった。

 元気が良すぎるのだ。

 先生の音読からはかえるたちの様子がイメージできない。

(これなら、あたしの方がうまく読めるわ)

 子どもたちの反応に、先生の目じりが細くなる。

「じゃあ、聞いてみようかしら。達也くん は、今の音読どう思った?」

「俺の方がうまいなって思いました!」

 達也が素直な反応をする。

 周りから、「ちょ、何言ってんの!」「言い方失礼だろ!」と声が上がる。

 しかし、國分先生は笑顔のままだった。

「ふふ、どこが『俺の方がうまい』と思った? 達也くん なら、どう読みますか?」

 先生の問いに、達也が「うーんと」とうなってから口を開く。

「このかえる、ずっと土の中にいて、ようやく外に出た! ってことっすよね? だとしたら、もっとうれしそうじゃないと。それに、『ほっ』も何してるかわかんないし」

「うんうん。ちなみに、この『ほっ』ってところ、かえるは何をしているんだろう? わかる人はいますか?」

 ゆらのを含めた数人が手を挙げる。じゃあ、望美さん、とすぐに声が飛んだ。

「はい。えっと、土の中から外に出ようとして、土を掘っている音だと思います」

「じゃあ、どんな気持ちで掘ってるんだろう?」

「どんな……早く外に出たい、気持ち、かな」

 同じですー、なるほど、といった声が飛び交う中で、ゆらのも首をたてに振った。

 國分先生は嬉しそうにうなずいてから、一度手をたたく。

 ぱちん、と小気味の良い音がした。

「それでは、実際にみんなも読んでみましょうか! 『俺の方が先生よりうまい』って言えるように、かえるの様子を想像して読んでみて。最初は先生の後に続いて読みます。それじゃあ起立~!」

 ゆらのは立ち上がろうとして、椅子に腰を落としたままのとはゑを視界にとらえる。

 なにか考え事をしているときのとはゑだ。じっと先生を見たまま動こうとしない。

「とはゑ、音読だってさ。ほら、立って」

 ゆらのにうながされ 、とはゑが立ち上がる。動作そのものはなめらかだったが、その無表情は「ただいま考え中」のままだ。 

 ゆらのの困り顔に気が付いたのか、國分先生が教科書を持ったままとはゑたちの席に近寄る。

「どうしました? 永久会さん、どこか痛い?」

 先生の言葉に、とはゑがわずかにきょとんとした顔になる。先生には、無表情で黙ったままに見えるかもしれない。

「とはゑ、さすがにあたしも 、とはゑが何を考えているのかまではわかってないわ」

 ゆらのの助け舟に、とはゑはようやく一言だけ返す。

「……わざ。と」

 それを聞いた國分先生が、少しだけ固まる。

 そして、ゆっくりと口の端を上げた。ささやくような声で、「秘密ですよ」と答える。

 近くにいたゆらのでさえ、聞こえるか聞こえないかくらいの声だった。

「先生ね、この詩がとても好きなんです。命がいよいよ花開くときの力強さと、新しい世界をひとつずつ確かめていくかえるの視点と。でも、それは先生の『好き』だから。……永久会とはゑさんなら、この詩をどう読みますか?」

 とはゑは小さくうなずいてから教科書を持った。

 様子を見ていたゆらのがあわてて 教科書を持ち、背筋を伸ばす。

 國分先生の後に続いて、子どもたちの「春のうた」が教室にひびき 渡る。

 そして、ぶわり、と。

 ゆらのの後ろから、風が吹いた。

「……っ!」

 クラスメイト全員が息をのむ。

 実際に風を肌に感じたわけじゃない。

 教室の後ろにあるのは窓ではなく黒板と掲示物、それからランドセルを置くロッカーだけだ。新学期とはいえまだ雪の残る季節で、外の風も冷たいはずだ。

 しかし、その場にいた人間が感じたのは、春風だった。

 土と、川と、花の匂いだ。

 おそらく、田起こしの直後だろう。

 青空の下で、肥料が混ぜられ栄養のたっぷりつまった 土がまず頭に浮かぶ。

 そばには小川があって、小さな魚が住んでいる。水は澄んでいて、触るとまだ冷たい。

 そんなあぜ道を、かわいらしい青い花が彩っている。

 近くで、ぼこり、と地面が盛り上がる。出てきたかえるは、まだ寝ぼけ眼だ。それでも早く外の世界が見たくて、春風を味わいたくて、けんめいに前後の足を動かす。

 青くさくて 優しくて、誰もが一生懸命に生きている、春のひとつの、景色 。

 その発生源は、もちろんとはゑだった。

 意外なことに、ゆらのたちの声が止まることはなかった。だって、かえるは一匹じゃない。何十匹、何百匹ものかえるたちが、そろって春を迎えたのだ。

  ああいいにおいだ。

  ケルルン クック。

 かえるたちの喜びの声を上げながら、ゆらのはふと「異産ことむす」という未言みことを思い出す。

 曰く、ある出来事から別の出来事を思い浮かべること。もしくは、共感覚を生じること。

(今、あたしたちは確かに、春を異産しているんだわ)

 よくよく聞けば、一番熱が入っているのは先導する國分先生の声だった。

 それがちょっぴりおかしくて、ゆらのは肩をゆらす。

  ケルルン クック。

  ケルルン クック。

 読み終えたあと、しばらくの間、教室には春がとどまっていた。

 達也が「何が起きたんだ」とでも言いたげにあたりを見回すが、当然周囲にあるのはいつもの教室だ。

 國分先生は数秒言葉に迷ってから、「みなさん、とても上手ですね。春の風景が思い浮かぶようでした」とだけ言う。

 それから、先生はとはゑの方を見てウインクした。

「すばらしい読みでした。よかったら、この後の班活動で見えた景色をみんなに伝えてね」

 とはゑはかすかにうなずいてから席に座る。

 先生が次の活動の説明をはじめてからも、クラスメイトたちはちらちらとはゑの方を見ていた。話しかけたくてたまらない様子だった。

 出遅れたように、わずかに開いた窓の隙間からまだ冷たい風が吹く。

 でもゆらのの耳にはまだ、土から出ようとするかえるたちの声が残っていた。

 幼いように思えた言葉が、自然と頭の中でくり 返される。

  ケルルン クック。

  ケルルン クック。

(ああ――これが、詩を読む 、ってことなのね)

  班を作ったとたんに囲まれ固まるとはゑを見ながら 、ゆらのはまだ遠いカエルたちの声に耳を澄ませた。

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