∞第5幕∞

 朝日がまだ光冷ひかりひえる中、小川家の玄関チャイムが少女の指で押しこまれた。

 間延びした音が家の中を通り過ぎて、冷えた空気に鋭くなった光がきらめく外にまで届く。

 家主の千秋がのんびりとドアを開けて少女を見下ろしたのは、チャイムが鳴ってからそれなりの待ち時間が差し込まれた後だった。

「あ、ああ、おはようございます。ゆ、ゆらのちゃん、だったね。わざわざありがとうね」

「はい、おはようございます。いえ、あたしからとはゑちゃんにお願いしたことなので、なんにも」

 ゆらのは出会ったばかりの親友のお父さんに向けて、よそ向きでていねいにしゃべる。

 背負った赤いランドベルの肩ベルトをにぎる手も、どこか力が入っていて、それこそ気負っているのが目に見えた。

「ふ、二人とも、やっぱりゆらのちゃんだったよ」

 千秋が家の中へと声をつっかえながらも呼びかけると、にこゑに手を引かれて、頭をぽてぽてと揺らすとはゑが玄関にやってきた。

 まぶたが半分落ちていて、見ている方が眠くなりそうだ。

「とはゑ? ねむいの?」

 かくん、と首を落としたとはゑは、ゆらのの問いかけにうなずいたのかどうか、よくわからない。

 そんな妹の様子に、にこゑは満足そうにほほえんでいる。

 千秋が体をどけると、とはゑはにこゑに、くつをはかせてもらってから、ゆらのの前に立つ。

 重たそうなまぶたが一瞬だけ氷銀ひぎんのひとみをのぞかせて、きらりと朝陽をえたように見えた。

「ぉはよぉ」

 あくびのようなあいさつが、とはゑの口からもれた。

 明らかに夢海ゆめみにただよったままの意識でも、ゆらののことは認識できるらしい。

「おはよう、とはゑ。そんなで学校行ける? だいじょうぶ?」

 ゆらのは、とはゑを見てこの上ない不安を覚えた。目を離したすきに転びそうだし、目を離してなくても途中で眠りに落ちて止まってしまいそうなのだから。

「ゆらの、貴女ととはゑは今から出ないと遅刻するでしょうが。ほら、行くわよ」

「え、にこゑさんも一緒に行くんですか?」

 ここから若松第四中学校は、城西小学校に比べて四分の一くらいの距離しかない。

 にこゑはまだまだゆっくりしてもいいのに、一緒に来るのかとゆらのの常識がとまどう。

「わたくしがとはゑを離れる時間を一秒でも長引かせると思って」

「いえ、ぜんぜん思いません」

 けれど、にこゑの放った一言に、すっかりこの非常識な女性に慣れてしまったゆらのはすぐに納得に心を入れ替えた。

「それじゃ、行ってくるわ」

「あ、ああ、いってらっしゃい。き、気を付けて行くんだよ」

「ゆらのがいれば、とはゑが怪我することはないわ」

 さらりと父親にあいさつを放って、ふにゃふにゃと手を振る妹の手を引いたにこゑが、ゆらのの横を通り過ぎる。

 とはゑとはちがう意味で動きによどみなく、ついでにゆらのへの気遣いもなくて歩み去ってしまそうなにこゑに、ゆらのはあわてて体をひるがえした。

「すみません、いってきます! とはゑはちゃんと小学校まで届けますので!」

「お、お願いするよ。ゆらのちゃんも、い、いってらっしゃい」

 ゆらのは、千秋に向かってばっと手を投げるように振ってかけ足でとはゑたちを追いかける。

 夢波ゆめなみに取られて足がおぼつかないとはゑを引いているから、水の流れのように美しく歩くにこゑにもすぐに追いついた。それでも、にこゑは自分自身だけでなく、後ろに連れたとはゑも、道のあちこちにうずくまる雪屍ゆきかばねに足を取られないでいるから、すごいとしか言いようがなかった。

「よくそんなとはゑの手をにぎって、そんなにすたすたと歩けますね?」

「わたくしは生まれた時からとはゑを愛でているもの。当然よ」

「つ、つよい……」

 にこゑの自尊心のかたまりみたいな物言いが、ゆらのにはまぶしく思えた。

 迷いなく、好きな人を好きだと言う。それに、人よりも手のかかるとはゑに、ちゃんとしろと言うのではなくて自分が動きを合わせて、それでいて自分は自分らしくふるまっている。

「にこゑさんは、負担とか思ったことないんですか?」

 ちらり、と、にこゑの細いまなざしが、ゆらのに振り返った。

 それは冬明けたばかりの雪解け水のように冷たく、けれど香りを辺りにふるまう紅梅のように色づいてゆらのには見えた。

「ゆらの、貴女、それはとはゑを負担だと思ってことはあるのかと訊いているの。それとも負担だと思うような物事に遭遇したことはあるのかと訊いているの」

「う、あ、えっと……」

 にこゑに質問の意図を聞き返されて、ゆらのはたじろいだ。

 はっきり言って、そこまで考えてない。でも、にこゑが、ふにゃふにゃと夢心地で手を引かれるままについてくるとはゑを負担だと考えるはずもないのは、すぐにわかった。

「えと、とりあえず、後の方で 」

「そう」

 にこゑが鼻を鳴らすから、ゆらのは機嫌をそこねてしまったかと肌寒いのに冷や汗をかく。

 三人が陸橋の下を通っていたら、トラックが一台走り抜けて行った。

 その音に、とはゑがぱちりと目を開けて、右折するトラックの後ろ姿をながめて、みえなくなったらまたまぶたが降りてきていた。

「負担だと思おうが思うまいが、邪魔なら排除するし、放っておいていいなら無視するだけだけど」

 そんなとはゑの様子をはらはらして見ていたゆらのは、突然返ってきたにこゑの言葉に、なんの話だろうかと思考を无言むことにさらわれていた。

 それから、さっきの話への返事だとゆらのが気が付くまで、にこゑはだまったまま淑やかに歩き続けた。

「あ、はい。さっきの。え、負担だと思ってもそうじゃない時とやることは一緒的な?」

「ゆらの、貴女、未言みことを扱う割に言葉使いが雑ね」

「うっ」

 事実を指摘しただけという態度でぴしゃりとあびせられた言葉に、だからこそゆらのは胸をおさえてうめいた。

 そんなゆらのを尻目に足を止めずに歩いていたにこゑは、用水路と線路を挟んだ向こうに中学校が見える踏切までたどり着いていた。

 そこでにこゑは、とはゑの手をゆらのの手ににぎらせる。

「小学校に着く頃にはちゃんと目を覚ますと思うわ。とはゑ、ちゃんとゆらのの言う事を聞くのよ」

 とはゑは、かっくんと首を落とした。

 その動作が人形にみたいに思えて、なんだかかわいいと、ゆらのは感じた。

 夢波にまぶたとゆらすとはゑと、その顔を見ているゆらのを置いて、にこゑはあっさりと中学校の校門へ向けて歩き去ってしまった。

 そんなきれいに姿勢正しい後ろ姿を見送るゆらのの耳に、かすかに風鳥かざどりみたいな音が入ってきた。

 ゆらのは、振り返るのと同じ動きで、夢波にゆれるとはゑの体を抱き寄せた。

 一台の車が二人のそばを通り過ぎて行く。ふだんは車なんて見かけるのがめずらしいくらいの道だけど、朝の通勤の時間だとやっぱり車が通る。

 それに家のすき間にしかれた道よりは幅があると言っても、車がすれ違うので精いっぱいな道だ。子どもが肩を並べて歩くとクラクションを鳴らされることもある。

 まして、まだ雪が道のはしっこを占拠している春先だから、なおさら幅に余裕なんてない。

「とはゑ、こっちの道行こう」

 だから、ゆらのは、とはゑの手を取って昨日の下校で通った道からはずれて、家の寄りそう方へと足を進めた。

 とはゑは、眠そうに足を転ばせそうで転ばないような歩みで、ゆらのに連れられていく。

 コンクリートの塀が家を囲んで、それが隣の家とくっついている、そんなさっきまでの道とちがって少しせまくるしさを感じるような、秘密の迷路を歩いているような、そんな気分になる道だ。

 あっちの線路と川と並んで歩く道はわかりやすくてまっすぐだからみんな使うけれど、ちっちゃな坂があったり側溝の中で見えないけれど滝のように落ちている音を水が立ててたりするこっちの道も冒険心があふれるみんなに人気がある。

 ゆらのも二日か、三日に一回は気分でこっちを通ってたりする。

「とはゑ、こっちの道はね、人目に付かないからね。たとえば、未言巫女を捕まえて運ばなきゃいけない時とかは、こっちを通るんだよ」

 ゆらのはおもきを、さもずっとそうしてきたんだとばかりに自慢を満たしてとはゑに語る。

 ゆらのに手を引かれて後ろをついて来てるとはゑは、あいかわらずかっくりかっくり首を赤べこにしていて、ちっとも聞いていないんだけれど、ゆらのは気づいていない。

 いつもの通学路になにを興奮してるのか、ゆらのの説明はとはゑの意識を置いてけぼりにしてどんどんと進む。

 あそこの家のビワは、塀から飛び出してるから六月に実がなったら帰りの度に一つずつ食べるんだとか。

 そこの家はツツジの生垣で、五月はうずもれてお花の塀になるんだとか。

 ここは車が通る道を渡るから、ちゃんと右左見て気を付けて一息に越えなきゃならないとか。

 この団地のところまで来たら、元の道に戻ってももう車も来なくなるから戻るんだとか。

 やっぱり駅の前を通らないとスーパーが邪魔で学校の方へ行けないんだとか。

 そんな全部を、とはゑは夢海にさらわれて聞くはしから无言に消えてしまっている。

 駅の辺りから、みんなの通学路が合流してきた。

 雪のない道の真ん中を堂々と歩く子や、六年生から一年生までいっしょに列を作っている子たちや、わざと雪の上を登っては降りて進む子もいる。

 ゆらのは友だちにおはようを言いながら歩き、とはゑはその度にまぶたを開けそうで開けられていなかった。

「ユラノ、Good morning、おはよう。Twiheは……、これまだ眠ってるんじゃないかい?」

「おはよ、エディ。そうなの。とはゑったら、朝が弱いみたい」

 ゆらのととはゑを見つけて歩み寄ってきたエディに、ゆらのが答える。その声がどことなくほこらしげなのは、とはゑのことを知っているのが、じまんになってるからかもしれない。

「およ? ゆらちんにえでぃっちにおっはー。あ、とわわんもいる――って、とうとぉ!」

「朝からうっさいよ、お前」

 ゆらのに手を引かれてたどたどしく歩くとはゑを見るなり、胸をおさえて叫んだ瑠衣に、一緒に歩いていた葵が耳をおさえた。

 そんないつもの二人にゆらのとエディがそろって苦笑いを浮かべる。

「いやー、これはやばいって。叫ぶのもやむなしだって。尊さレベルで言えば、そこの前行く熟年夫婦クラスだって。夫の後ろ半歩引いて連れ添うとか、のぞみぃってばマジで貞淑なやまとなでしこのかがみ! よっ、天然記念物! 一生そのままでいて! うちがちゃんと保護してあげるから!」

「くっそ、今日はつかまんねーって思ってだまってたのに……だれとだれが夫婦だよ、このばか」

「そうだよ、私と夫婦だなんて綾斗くんがかわいそうだよ、瑠衣ちゃん」

 いつも望美との登校風景を瑠衣におがまれている綾斗が、今日ばかりはとはゑのお陰でからまれずにすむかと期待してたけれど、やっぱりつかまり、肩をがっくりと落とす。

 でも、ゆらのはそのほほが血色よくなるのを見ていて、まんざらでもないんだろうなと思っていた。

 望美に否定されたのに対して、口ごもりながら、そんなことない、とつぶやいているから、なおさらだ。その声は小さすぎて、少しだけ後ろを歩く望美にも届いてなさそうだけど。

 ゆらのがそんなふうに前の方へと意識を向けて油断した瞬間に。

「へーい! とっわっえー! 寝ながら歩くなんてあぶないぞー! かわいいからこうやってさらわれちゃうぞー!」

 朝から元気な声と同時に、とはゑの体が抱き上げられてゆらのの手から離れた。

 とつぜん、後ろから美佳に空へと持ち上げられて足が地面からはぐれたとはゑは、さすがにぱっちりと目を覚まして視界いっぱいに広がる空の青さに目を白黒させる。

「え、ごめん。いきなり彼女うばったのは謝るから、その人を殺せそうな目でこっち見るのやめてくださいおねがいします」

 しかし、とはゑをとまどわせた張本人は真横からせまる殺気の前に完全降伏を宣言し動きを止めた。

 空中にとどめられているとはゑは、抵抗することもなく無造作に足がゆれている。

「とりあえず、とはゑを地面に降ろしてあげて」

「はい」

 おどしというのもなまぬるいようなにらみを受けて、美佳は即座に降伏を選択した。

 ゆらのの低い声に素直に従い、とはゑの体はゆっくりと地面に着いた。

 一秒のすき間も作らずに、ゆらのがとはゑを、ぎゅっと抱きしめる。

「ごめん、とはゑ、あたし、ちゃんと守れなかった。もう油断しないから」

「んぅ?」

 寝起きでまったく状況をわかっていないとはゑは、ゆらのにあやまられても首をこてんとたおすだけだった。

 他の友人たちから、美佳に向けてこの動かない空気どうすんだよ、と非難のまなざしがつき刺さる。

 現行犯は肩をちぢこませて、自分の手をさすって不安を逃がそうとしていた。

 しばらく、だれも言葉を出さない時間がすぎて。

 なにを思ったのか、とはゑが顔の前にあったゆらの肩にほほをこすりつけて。

 ゆらのは本能のままにとはゑのさらさらとこぼれる黒髪をなでる。

 やっと顔をゆらのから離したとはゑは、氷銀の愛鏡まなかがみいっぱいにゆらのの顔を映しこむ。

「ゆら、の、ちゃ。おはよ、ぅ」

「あ、うん。おはよう、とはゑ。二回目だけど」

 とはゑは、そうなの、とたずねるように首をかしげた。

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