∞第20幕∞

 ゆらのが笑って、白い吐息が雪月夜ゆきづくよに舞った。

 とはゑも笑って、白い吐息はゆらのの肌にぶつかって、雪月夜に散った。

「お願い、とはゑ」

 ゆらのが、命宝みょうほうのペン先を、とはゑの持つ未言草子にそわせた。

 とはゑが、雪月夜を深く吸い込んで、肺から全身にめぐらせる。

〈誰一人として許されはしない〉

 とはゑが雪月夜の冒頭に選んだ一節は、身もふたもないくらいに厳しい言葉だった。

 ゆらのはそれでも、怯えずにその一節を綴る。

 命宝から滴る宵藍は、辺りの光を吸い込んでは氷銀ひぎんきらつかせている。

〈白き雪の上に立つあたわず

 浄き月の下に立つ能わず

 いつくしき夜の内に立つ能わず〉

 誰も雪月夜の元に立ち、その景色を見るのは不可能だと告げる。

 だって、こんなにも冷たい夜は、生き物の持つ、命という熱を簡単に奪って、安らかな眠りに就かせてしまうのだから。

〈空に雲はなく

 雪は静謐にして止まり

 闇は仄かに光染みて


 見渡す限り雪に埋もれて純白に平らかに

 月の光は雪の内に透き抜けて天地を巡り青白く砥ぎ澄まされ

 夜はその光を闇に内包してただただ静かに鎮めて沈黙をまもる〉

 とはゑの唇はなめらかに謳い、ゆらのの指もよどみなく綴る。

 それは光が満ちる夜。

 それは闇にめとられた月。

 そして雪は光も闇も吸い込み、映し、内側にすべらせて、そして夜に放り出す。

〈それは、生命いのちが眠りに就くべきときであり、またときであり、ときなのだ

 摂理は巡り、全てに停止を占めす〉

 いつしか、无言むことは雪月夜の未言巫女を解き放って、今は我が時にあらずとばかりに空に浮いて目を伏せる上光かみみつの周りを飛び遊び、その光が雪月夜にもれるのを防ぐ。

〈月より孕んで膨らませし雪の放つ夜の光の色は、まさしく冬と想えり〉

 雪月夜の未言巫女は、ゆらのの最後の一撃を受けたままに屋上に四肢を投げ出して、雪に埋もれて、夜に浮かぶ月を溜まり目に見ていた。

〈この世にありて、尤も穢れなく美しき景色は

 如何に貴き意思とても、存在することを認めない

 そこに立つ者は、無思無考となりて、自らを失う〉

 真に美しいものを見た時、人は言葉を失う。それは声だけでなく、脳裏に思い浮かぶものもなくなり、空白の中で琴線だけがふるえている。

 自らの言葉という不純も交えず、美に浸るのだ。

〈雪月夜は、生命いのちの生命らしき様を凍てつかせ砕く

 生命としての振る舞いを奪い去る

 血潮は寒きに堪えるとても、思考は余さず凍てさせる

 下水したみずも許さず、泉の底まで氷に代えて閉ざす〉

 なら、今ここに立つとはゑとゆらのは、なんなのであろう。

 思考を失い、命を失うのを一定いちじょうとして、思うでも生きるでもなく、雪月夜に立ち、胸にあふれる想いを持て余すしかできない二人は、あるいは誰かは、命でないならなんだと定義できるのだろう。

 それより前は、確かに命だろう。

 それより後もまた、命に帰るだろう。

 けれど、今この瞬間こそは、生ではなく、死に等しく自我を喪って、大いなる息吹に還っているのではなかろうか。

〈勇者も聖者も

 魔王も鬼王も

 天神地祇も

 その美しく静かな景色を観れば、息を止めて心を凍らせ、生命としての動きを失う〉

 そこには子供とか大人とか、庶民とか偉人とか、人とか獣とか草木とか、星とか山とか、大地とか海原とか天空とか宇宙とか、神様とか悪魔とか、正しいとか間違っているとか、もしかしたら善とか悪とかも、みんなそんな下らない違いなんて意味を失って。

 等しく世界として定義できるのかも、しれない。

〈されば、生命いのちは此処に行き着くよ

 此処を生命の果てと知る

 つまりは雪月夜に辿り着く者は最期の向こうへと至るものでしょう〉

 ゆらののほほに、熱いなにかが触れて、ほほを伝わって落ちた。

 とはゑは、しばし言葉を紡ぐのを止めて、ゆらのの目元を手のひらで拭う。

 二粒目の涙が、とはゑの手のひらの中でしづころとうずくまって、きらりと氷銀の光をえた。

〈けれど、私はここに立つ

 この美しき景色に心を凍て止めざるを得ず

 この美しき景色を記憶に永久に留めて置かざるを得ず

 この美しき景色が解けて失うのならば、無終の極みまで凍り続けむ

 生命いのちであることを許されず、ドレスコードに死を定めている

 いや、そこに立つなれば、敬意と謝意と感動をもって、自ら死に浸るのだ

 けれど、私は美しいと想う

 だから、私は美しいと想う

 生命として、美しいと想い続ける〉

 命であることを否定されても、とはゑは命として雪月夜を美しいと想い、受け止めた。

 ゆらのは、一文字ずつ、気を失いそうなくらいに真剣に意識を研ぎ澄ませて、とはゑが見せてくれた景色を綴る。

〈許されないから立たないのは、容易い道理だ〉

 ちくりと、ゆらのに針鼓はりこが突き刺さる。

〈許されなくても此処に立つと命を定めるのを、無理を徹すと言う〉

 とはゑの心はもう体なんて小さな器に納まりきらずに身外みはずして、雪月夜の世に満ちていた。

艱難かんなんを破るからこそ、人は至高の美を手にする権利を得ると知れ〉

 結局は、生きるか死ぬか、恐ろしいと止まるか美しいとたどり着くか、それは一人一人の意志によって得られる境涯だ。

〈冬の性として、生くるを許さず、死を強いるとも

 それに抗い生くる者が春を謳歌する


 否


 春を待たず、まさに冬の美しさを授かる〉

 ああ、ほんとうに。なんて、それぞれに美しいのだろう。この世にある全ては。

 そして今、目の前に広がる雪月夜という永遠なる刹那は。

〈故に私は許されずとも此処に立つ

 故に私は永眠を導かれるとも、其れを拒んで此処に立つ〉

 それはわがままだと、突き放されて死するべきと試練を与えられるなら。

 気高く生き抜いて、試練を乗り越えて至高を我が物にしよう。

〈不許可を打ち破る強き生命のみが

 冬のもっとも美しき姿をるにあたう〉

 きっと、未言屋店主もそうやって、たくさんの未言を見つけていったのだから。

〈荘厳なる摂理が敷く試練に討ち入り、負けずに生きて立つ者が、雪月夜の景色を褒美として受け取る勇姿なり〉

 未言の名をいただく二人は、最初の一人に恥じない強さで、今、此処に立ち、未言を見るのだと、言葉も交わさずにお互いに誓う。

 ゆらのは、とはゑから受け取った最後の一節を引き終えると、大きくうでを振って、命宝の彩血を未言草子に散らした。

 雪月夜の詩を、氷銀の煌めきが飾る。

「どうかな、とはゑ?」

 ゆらのは後ろの親友の顔色をうかがおうと振り返ろうとしたけれど。

 その途中であったかいほほに迎え入れられて、振り向くまでもなかった。

 とはゑは喜びのままにゆらののほほに、自分のほほを押し付ける。

「ふふ、はははっ、もう、とはゑのほっぺたったら、すべすべでもちもちね」

 笑い合う少女たちの声を聞きながら、雪月夜はそっとまぶたを閉じる。

 雪月夜自身の冷たさと静けさが肌から染み込んできて心地好く、そしてそれを損なう暖かにはしゃぐ声が、くすぐったく快かった。

 そんな妹の姿を、上光の未言巫女が微笑みを浮かべて見守っている。

「……余り見られたくはありません」

「はて。が目を反らす務めがいづれにかあらむ」

 上光の意志が上光のものであるのはその通りなので、雪月夜は自分が起き上がり、まだ笑い声を雪月夜の中へと振りまく未言少女たちの前へと足を進めた。

 雪月夜が近寄る気配を察して、まずゆらのが口を結んで、顔を上げた。

 その背中にくっついたとはゑも、雪月夜を見る。

「私は、挑んできたのは一人の、盲目で幼く、力任せで物事に対処する少女だと思っていました」

 うぐ、とゆらのがのどをつまらせる。あんまりな言われ方だけど、なまじ自覚がある分、反論もしづらい。

「あら、まさにゆらの、貴女を言い当てているじゃない。良かったわね」

「本当にその通りではありますけど、それもこれも无言がちゃんと教えて差し上げないのが悪いですのー」

「こんな時ばっかりイキトーゴーしないでもらえますか、そこの二人!?」

 横合いから、にこゑと芽言めことに茶々を入れられて、ゆらのが叫びが空にひびく。

「けれど」

 しかし、そんなかしましくもゆるんだ空気は、雪月夜の冷たい声に凍り付いた。

「私に挑んでいたのは、実は二人の少女であったのですね」

 ゆらのは、肩から胸の上にぶら下がるとはゑのうでを、きゅっとにぎる。

 その眼差しは鋭く雪月夜を見すえ、大切な人に手出しはさせないと、母親さながらの敵意を見せる。

然様さよう。ゆらのととはゑこそ、吾共あどもを綴り、存在をあかす未言少女なり」

「わたくしと无言が選んだ二人なの」

 上光と芽言は、共に誇らしそうに、未言少女を雪月夜に宣言する。

 しばらく、その場の全員が雪月夜に視線を向けて、ただ沈黙だけ過ぎ去っていく。

 その空気をこわしたのは、雪月夜が口の端に浮かべた微笑だった。

 美人として様になっているその仕草が思いがけなくて、ゆらのがぽかんと口を開き、とはゑがほわ、と未声みこゑで鳴く。

「認めましょう。二人は確かに、この雪月夜の存在を世に示してくださいました。我が母君にも劣らず素晴らしい詩を贈って頂いた上に、私を表現した模様まで添えて下さったこと、深く感謝し、必ず報恩致すと誓いましょう」

 凛と、胸に手を添えて立つ雪月夜は、そのお礼の言葉を終えると同時に、氷銀のきらめきと宵藍の暗がりにほどけて、未言草子に納まった。

「ふにゃ」

 全てが終わって、ゆらのは全身から力が抜けてしまって。

 その体を受け止めながらもべたりと潰れたとはゑが、情けない声をもらした。

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