∞第19幕∞

「いいから、ゆらの、貴女は上光かみみつで早く勝負をつけなさいな」

 二人の息遣いの音は雪に飲まれて消えて、細い息が白く凍る沈黙を、にこゑがしれっと破った。

「え、あたしが? 」

 水を差し向けられたゆらのは、自分を指差して目を丸くする。

 このまま上光が話をつけてもいいんじゃないかと、ゆらのは未言巫女みことみこを見上げた。

雪月夜ゆきづくよに挑みたりしは、ゆらのであろうに。力は貸す故に、初竟はつつひに責を果たすがよい」

 ゆらのは、最後にとはゑにうかがいを立てるために視線を投げかけた。

 とはゑがぐっと胸の前で握りこぶしを持ってきて、ゆらのを応援する。

「はは……いや、自信がないわけじゃなくてさ。うん、でも、応援ありがと、とはゑ」

 ゆらのはすっかり気が緩んでしまって、ぶらりと宵菫しょうきんを上光に向けて掲げる。

 そして思い出したように雪月夜の未言巫女を肩越しに見やった。

「あの、ずるいとか思う?」

 恐る恐る問いかけるゆらのに、雪月夜の未言巫女はふっと苦笑をこぼした。

「いいえ。友が力になりたいというのは、貴女の力の一つです。むしろ、そこに疑問を挟む惰弱さを苛立たしく思います」

「こわっ!?」

 やっぱり雪月夜は怖い未言巫女だと、ゆらのの気持ちに焦りが点る。

 ゆらのは息を長くはき、気持ちを入れ替えた。

〈未だことばにあらざることを〉

 宵菫からインクが飛びだして、ゆらのの周り、无言むことの内側にただよう。

〈未だ言と記されぬ物を〉

 上光が宵菫のインクに手を差し伸べた。じわりと黄金の光が彩血あやちに移っていく。

〈この彩血に宿して表し現す〉

 宵菫の彩血の光が増すほどに、上光の姿が薄れて儚いでいく。

 上光の全てを移して溶かした彩血が、一瞬で宵菫の中へと押し寄せた。

「力を貸して、とはゑ、〈上光〉、〈无言〉 !」

 ゆらのが体を回してうでを大きく振るう。

 宵菫のペン先の軌跡は一筆書きに、雪月夜の未言巫女へと向かう。

 雪月夜の足が、空中で滑った。

 いや、滑ったというのはおかしいか。それは彼女の自律した動きであり、迫る上光の彩血を避けるための行動なのだから。

 雪月夜のかたちが光とほどけて、雪の中をすらりとめぐる。

 ゆらのが宵菫を振るったうでの内側に、雪月夜は移り、ドレスをまとう巫女の姿を象った。

 雪月夜の細い足がドレスのすそをひるがえして、白い素肌を見せる。

 そのつま先から空気の水蒸気も酸素も窒素も全てまとめて凍てつき、杭となってゆらのの腹へ突き刺さろうとする。

 雪月夜の位置から、ゆらのをはさんだ向こうの空へ、蹴りの塔が建つ。

 その土台となる場所にいたゆらのがどうなったのかと、とはゑは目をあらんかぎりに見開いて。

 霧を噴き出す桜華おうかを蹴りの氷塔に添えたゆらのが、自信にあふれた笑みを浮かべているのに、安堵の息をたなびかせる。

 孤を描いて周る宵菫の上光が、空を翔けてゆらのの右足へとたどり着いた。ゆらのはその足を頭より高く天の月に向けて掲げる。

 雪月夜が軸足として雪に置いた左足を跳ねさせた。

 前の蹴りの勢いを体に乗せて、ひねりでめぐらせて、浮かんだ左足が空中からゆらのの額へと振り下ろされる。

 ゆらのの左足が雪を押しこみ、揺らした。衝撃を受けてあふれた雪は波のように吹き出し、とはゑの顔にぶつかって息を止めさせた。

 地面から放たれた矢のように、天へ、そして雪月夜の左足へ向かって、体を上下反転させたゆらのの蹴りが跳ぶ。

 凍てつく蹴りと光まとう蹴りがぶつかり。

 きらきらとダイヤモンドが飛び散った。

「ハァッ!」

 ゆらのが空中で体の天地を戻した。

 ぐり、と雪月夜の足がゆらのに踏みしめられる。

 雪月夜が初めて表情を驚きで崩し、目を見開いた。

「ツァッ!」

 ゆらのが裂ぱくの気合をほえる。

 踏み込みの力は屋上へと振り下ろされた。

 ぶわりと、桜華より放たれた无言がゆらの背後へ回って飛び立つ。

 地面へと降下する无言の翼は、ゆらのの背中を押し、そして追い過ごして屋上に広がった。

 上光の光が雲間からかげとなって天使の梯子を地面へかけるように、ゆらのの蹴りが雪の上に突き刺さり、再び雪の波をとはゑの体にかぶせた。

 その衝撃は学校という建物にも突き刺さるはずだったが、上光を覆う霧となった无言に全ての傷は忘却させられ、存在し得なかった。

「とはゑ!」

 ゆらのの叫びが飛んできて、とはゑはびくりと肩を跳ねさせた。

 上光は雪月夜の体に全て注がれて、无言の霧がまゆのようにそれを閉じ込めている。

 キックの余韻で三日月のように宵菫と桜華を持つ手を広げていたゆらのは、足をその霧からどかして、とはゑに満面の笑みを向ける。

「今ならいける! 雪月夜を綴れる!?」

 あっけに取られていたとはゑだったけれど、ゆらのの意志を受け止めて、しっかりとうなずいて見せた。

 ゆらのもうなずき返してくれて、一跳びでとはゑの目の前にやって来る。

 とはゑは、ゆらのの首にうでを回して抱き寄せた。

「ぴぃっ!? なに!? どゆこと!?」

 突然に身を寄せられてびっくりするゆらのをよそに、とはゑはほほをゆらのの体にすりつけながら、ずりずりとゆらのの背中におぶさった。

 ゆらのの肩に乗ったうでが彼女の前に伸びて、未言草子の新しいページを開く。

 上光の時と同じ、とはゑが未言の詩を詠み、ゆらのがそれを未言草子に書き留めて、二人で未言を綴るための準備が整った。

 ゆらのはほほを赤らめながら、もう一本今まで使わずに残っていた万年筆を取り出した。

 会津漆を螺鈿が彩る最高の一筆、銘を命宝みょうほう、ゆらのはそのふたを外し、純金のペン先を夜に捧げた。

〈未だ言にあらざるを〉

 命宝から、ゆらのの指先へ、じわりと冷たさが注がれる。

〈今此処に綴るに相応しき色を誓い願う祈りのままに〉

 雪月夜に染み込んだ宵藍と氷銀の色を、するすると命宝が吸い込んでいく。

〈この一筆に湧き出だせ〉

 静かに、命宝は雪月夜の色を充填した。

未言充添インフィル

 ゆらのもまた穏やかにささやく。

 命は、凍てつく雪に眠らされて静かだ。

 星は、眩しい月に追いやられて遠い。

 光は、遥かに広い夜に飲まれてならされている。

 こつん、ととはゑが額を、ゆらのの後頭部にぶつけた。

 二人の愛鏡まなかがみにそろって、氷銀ひぎんが沁み出しそうな宵藍よいあいの無限が映る。

「……きれい」

 思い吐いて、ゆらのは、はっとした。

 雪月夜はこんなに綺麗なのに、今初めて、そう想えた。

「うん。雪月夜は、とても怖くて、すごく綺麗」

 とはゑの細息が、ゆらのの耳を一瞬だけ温めた。

 とはゑの吐息の熱は、すぐにゆらのの耳からはがれていくけれど、その言葉のぬくもりは、ゆっくりとゆらのの意識まで蜜注みつそそがれる。

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