♪第9幕♪
閉じていたノートと筆箱に手を伸ばしたところで、「ストーップ」と止められる。
同時に、ゆらのの左の手の甲に、一回り大きな右手が重ねられた。
「ふぇっ」
思わず、ゆらのの口から未声が上がる。予想できなかった声とぬくもりに、顔が一瞬で真っ赤に染まった。
声をかけたのは、もちろん光斗だ。
「まだ休憩タイムだよ、ゆらのちゃん」
「へっ……あっ、いや、えと、その」
ゆらのの左手はつかまれた まま、自身の膝の上まで戻ってくる。手汗がひどく、それが光斗に嫌がられるんじゃないかと気が気でなかった。
光斗は何でもなかったようなそぶり で手を離すと、ゆらののコップにオレンジジュースを注いだ。
「あんまり根を詰めすぎるのもよくないよ。適度な休憩は、効率を上げるために必要さ。……ごめんね? びっくりさせちゃったね」
困ったように首をかしげる光斗に、ゆらのは首を横に大きく振る。顔はまだ赤い。蒸気が頭から噴き出そうだった。
光斗は自身のコップにもジュースを注いでから、「うーん、そうだねえ」と口を開いた。
「『絶対に正解までたどり着ける方法』ではないけれど、確かに、僕が気をつけていることはいくつかある。……聞くかい?」
ゆらのに投げかけられた瞳孔は、暖かい色合いをした電灯の下で静かに透き通っていた。それを包む瞳端が、ほんの少し青みがかっていること に、ゆらのは初めて気がつく。
「お願いします」とつぶやいた 声は、ストーブの音に負けてしまいそうなほど小さかったが、真横の光斗にはきちんと届いた。
ゆっくりと光斗の口端が上がる。
「まずは、さっきも言った通り、慎重に動くこと。今、自分が一体何を問題としているのか、どうしたいのかを踏まえて、何をするべきかよく考えるんだ。目的と、手段と、やり方を考えてから行動することだね」
「慎重に動く、ですか」
繰り返すゆらのに、光斗が肯定の頷きを返す。
「算数のテストなら、問題をよく読んで、どうすれば答えにたどり着けるか考える、って感じかな」と続けた。
「もちろん、そのためには練習が必要だ。見たことのない問題に真っ向から取り組むのは、かなりハードルが高いからね。できるだけいろいろな問題を解いて、手段とやり方を知っておくことが大事なんだ」
ゆらのは閉じたままのノートに視線を落とした。ノートの端はいつの間にか丸くなっていて、長く使い込んできたことを指していた。
それからゆらのは、三本の万年筆のことを思い出す。
これまでにゆらのが積み重ねてきた経験は、確かに現在の戦いでも生きている。
「でも、いざ本番ってなったとき、出てきた問題が今まで見てきたものとは限らないですよね? もし、初めて見る問題が出てきたら……」
言葉は尻すぼみになり、少し冷えた部屋の空気に溶けて消える。
光斗は、ゆらのの表情を横目に、スコーンを一つ手に取った。どうやらまだ混じっていたらしい、不格好なそれを、じっと眺める。
そっとイチゴジャムを乗せたスコーンは、すっかり冷めきっていた。
「そうだね、どんなに練習をしても、見たことのない問題に出くわすことはある。そういうときは――」
「そういうときは?」
聞き返すゆらのに、光斗はにっこり笑って答えた。
「とりあえず、やってみる。もちろん慎重さは必要だ。まずはよく考えて、その後行動する。自分が信じた目的に沿って、自分が信じた手段とやり方で、だ。そのときは、決して立ち止まってはいけないよ。誰が何と言おうと、できるところまでは、自分の力でやってみるといいさ 」
そう言い切ると、光斗はスコーンを一口で食べる。ざく、ざく、とかみ砕く音が、部屋に染みわたった。
ゆらのは、「で、でも、それで間違えちゃったら?」と尋ねる。
スコーンの残りは少なく、ゆらのが型を抜いたものは残っていなかった。きれいに円柱の形に切り取られたそれらは、皿の上で列を乱すことなく並んでいた。
「そのときは、そのときさ」
光斗は、スコーンを飲み込んでから、軽く流す。
「テストだって、今自分がどこまでできるのか、という確認に過ぎない。間違えたら、間違えていないところまで戻ってきてやり直せばいい。要は、次に間違えなきゃいいんだからね」
「それに」と、光斗は付け加えた。
「間違えちゃいけないことだって、別に、間違えてもいいんだよ。そこに信念があれば、そうだね、何度だってやり直せるさ 」
光斗のオレンジジュースは、完全に氷が溶け切ってしまっていた。水とオレンジに分離しているそれを、光斗は近くにあったスプーンでかき混ぜる。すぐにそれは、いつものオレンジジュースと区別がつかなくなった。
「シンネン?」とゆらのが首を捻ると、「自分の力で、自分を信じてやってみるってこと」と答えが返ってきた。
ゆらのは「自分の力で、自分を信じて」と呟いてみる。
それは、ゆらのの心にぴったり当てはまるように思えた。
これまでずっとそうやってきたのだ。これからだって、うまくいくに違いなかった。
(もちろん、上光の時みたいに、うまくいかないことだってあるだろう、けど)
スコーンを手に取ったゆらのは、スプーンでイチゴジャムをたっぷりとつけた。それから、光斗を真似るように、大きく口を開けてそれにかぶりつく。
母が型を抜いたそれは、形もよくて、ゆらのの口には入りきらなかった。それでも無理矢理噛めば、生地の香ばしさとイチゴの甘酸っぱい香りが舌の上で広がっていく。
独特の歯ごたえを楽しみながら、ゆらのはスコーンを食していく。
光斗は、ハムスターのように頬をふくらませたゆらののことを、笑わなかった。ただ満足そうに、もう一つスコーンをつまんだ。
(今なら、スコーンの型抜きだってうまくできそう)
ゆらのは皿の上で軽く手を払うと、今度こそノートを引き寄せた。
先に気がついたのは、光斗の方だった。
「何だか今日は冷えるね」
そう言われて、ゆらのもノートから顔を上げる。
確かに、部屋の温度が数度下がっているような感覚がある。床暖房も電気ストーブもあると言うのに、沈み込むような寒さが足元にあった。
光斗は立ち上がると、電気ストーブの設定温度を一度上げた。それから、ふと窓の外を見て、「おっと」と声を漏らした。
四角く切り取られた外の世界は、完全な白と化していた。
丁寧に整えられた庭も、その先の道路も、何もかもが雪で埋め尽くされていた。 うっすらと見える端に停められた車は、そのタイヤの半分ほどが埋まっている。窓は開けられなかった。当たり前だ、今開けようものなら、室内にどれだけの雪が入り込んでくることか。
空は厚い雲が覆っていて、雪は止む気配がなかった。
ゆらのは思わず立ち上がった。
会津若松は、三月にも雪が降る。だが、ここまで積もることは珍しかった。
(珍しい――で、済むことかしら?)
不意に、嫌な予感がよぎる。
光斗はもう一度ストーブの温度を上げてから、「ゆらのちゃん、お迎えを呼ぼうか。そろそろ帰った方がいいだろう」と言う。
しかし、ゆらのの視線は、外に張り付いたままだった。
(異常気象、芯からくる寒さ、ただ世界を埋め尽くそうとする白――だめだわ、情報が足りない。でも、多分、そうだ)
その様子を見ていた光斗は、ぽつりとつぶやく。
「まるで、冬みたいだ。春を阻もうとする、終わらない冬」
ゆらのが光斗の方を振り向く。光斗はまっすぐゆらのを見るばかりで、その表情は読み取れない。
それでも、光斗の言葉は、ゆらのを動かすには十分すぎるくらいだった。
「なんとか、しなきゃ。これは――」
つぶやいた声は、外の白い世界にすぐに埋もれた。
(――未言巫女!)
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