♪第7幕♪

「 いいかい、ゆらのちゃん。算数のいいところは、答えが決まっているということなんだ。どんな道筋を歩もうと、それが間違いでなければ、僕らはきっとそこにたどり着ける」

 そんな言葉とともに、ヘーゼルナッツ色の瞳がゆらのを捕らえた。

 少し釣り目がちなそれは、細められると極上の柔らかな笑みを作り上げる。こうなると、捕らえられた者はもう逃げられなくなってしまう。

 ゆらのは、「ひゃ、ひゃい」と返事なんだか未声なんだかよく分からない声を上げた。

 魔女による恐怖の採寸の翌日は、光斗との勉強会の日だった。

 前回の勉強会で、「また、おいしいお菓子を持って来るので、次は算数を詳しく教えてくれませんか!」とゆらのがごり押ししたのだ。

 瞳と同じ色をした光斗のまつ毛は長い。電灯の光を反射して、麦の穂のように 輝いている。

 ネイビーのTシャツと黒いスキニーパンツの上から、ギアシャツを軽く羽織るという、いつもよりラフな格好だが、それでも品があるのはさすがだった。

(まるで、絵本か漫画から飛び出してきたひと みたい)

 ゆらのが見とれていると、光斗は「ん?」と首を傾げた。

 あわててノートに向き直るゆらの。

 勉強会の場所は、シンプルなつくりのリビングルームだ。白を基調とした部屋は、カウンターを境目にしてキッチンとつながっている。光斗の母親は片づけ上手なのだろう、物は多いが、すっきりとまとまっている。テレビの隣に置かれた大型の灯油ヒーター は、温かい風を絶えず吐き出していた。

 光斗の母は、ゆらのと顔を合わせてから買い物に出ていった。「すぐに戻ってくる」と車で出ていったが、まだ戻ってくる気配はない。

 「また、どこかでご近所さんの家に上がり込んでしゃべり倒しているんだろう」と、光斗は苦笑いしていた。

 床暖房の助けもあって、室内は程よく温かい。外は、また雪が降りだすんじゃないかというくらい寒かったのに、大違いだ。

 テーブルの上には、お互いの教科書とノート、それから冷たいオレンジジュースが載っている。光斗の前には、色とりどりの付せんが挟まった難しそうな参考書もあるが、彼がそれを開く気配はなかった。

 どちらかといえば、ゆらのの勉強の合間に自分の課題も片づけている、といった風だ。

 光斗は、ノートに書き写された問題を指さして、「例えば」と続ける。

「計算なら、間違えてはいけない順番、というのがある。覚えているかな?」

 ゆらのは、こくこく、とうなずく。去年の二学期に習った内容だった。

「カッコの中、かけ算とわり算、それから最後に足し算と引き算、ですね」

「その通り。しっかり授業を受けてきた証拠だね、さすがだ」

 特におどろいた様子でもなく、さりげなくほめる光斗に、ゆらのの頬がゆるむ。

 実際、光斗のほめて伸ばす教え方は、ゆらのに合っているようだった。次のテストでは、確実に点数が伸びているだろう。

 「じゃあ、実際にやってみよう」という言葉とともに、ゆらのはえんぴつ を自然と動かし始めた。

(まずはカッコの中の二十八足す三で三十一、そこに九をかけて、……かけ……ううん、これは筆算ね、ええと……)

 必死にノートの端を使って筆算を試みるゆらのを、光斗は静かに見守る。

(できた!)

 筆算を終え、一問目を片づけたゆらのは、すぐに二問目に取りかかろうとする。取りかかろうとして、

「本当にそれでいいかな?」

 その 声で、鉛筆の先を止めた。

 横をちらりと見ると、そこにはいたずらっ子のような笑みを浮かべた光斗の姿がある。

(そっ、その笑顔は反則ですよ光斗さん!)

 普段はあまり見せない、彼の子どもらしい表情に、ゆらのは小さく唾をのんだ。

「あせってはいけないよ。何事においても、一つ間違えると、決して正しい答えにはたどりつけない。だから僕らは、常に慎重でなければならないんだ」

「シンチョウに、ですか」

 光斗の言葉を、ゆらのは小さく繰り返す。

 からん、と、ガラスのコップに注がれたオレンジジュースがないた 。氷鈴ひすずはずいぶん溶けて、オレンジの上に透明な層が生まれている。

「うん、慎重に。でも、もし間違えてしまっても、算数はやり直しが効く。間違えたところから、もう一度解き直せばいいわけだからね。まあ、一発で解けるようになれば、一番いいんだけれども」

 そう言って、光斗はさっきゆらのが必死で書いていた筆算を見る。見るだけで何も言わないが、ゆらのの視線もまた、自然とそちらを向いた。

 それは、気がついてしまえば誰だって分かるような、簡単な繰り上がりのミスだった。

「……あ」

 ゆらのの手が、消しゴムへ伸びる。

 光斗は、「さすがゆらのちゃん、自分でちゃんと気づいたね」と、ゆっくり笑った。

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