∞第6幕∞

 大皿に乗った餃子が湯気を立てて熱さを知らしめている。

 テーブルに到着したその一枚でも五十個は下らないだろうが、リビングと繋がったキッチンでは第二陣も焼かれているのが水蒸気の音でしっかりと届いていた。

「お母さん、餃子なんていつの間に作ってたの?」

 ゆらのは、母の得意料理に苦笑いを薄く浮かべている。

 妙乃たえのの料理は手料理が基本で、餃子だってキャベツを刻むところから始まる。時間がかかる料理だから、おいしくて、ゆらのもだいすきだけれど、そうそう食卓に上がらないのだ。ともすれば、餃子が出る日はそれだけで特別になっているし、そして特別な日を記念して作られることも多い。

 もしかして、とはゑ達が来るのを知っていたのかな、とゆらのは想像してみた。

 その横のいすに座っているとはゑは、じぃっと餃子に目を奪われていた。

 妙乃がご飯と水餃子を並べてくれるのを、首を大げさに振って目で追って、待ちきれないとばかりに、そわそわと体をゆすっている。

 妙乃はコンロのフライパンの前に戻る前に、ゆらのに向かって小さくうなずいてみせた。

「食べていいのね? とはゑ、もういいって」

 ゆらのから声をかけられて、とはゑは期待だけで満たされた瞳を、友だちとは反対のとなりに座っているお姉ちゃんに向ける。

 妹のまなざしにほほえみを浮かべて、にこゑはゆったりとうなずいた。

「ええ、いいわよ。いただきます」

「ぃた……ぁき、ます」

 にこゑが手を合わせれば、とはゑもそれにならって、食膳のあいさつをささげた。

「あ、と、いただきます」

 姉妹の行儀のいい仕草を見て、ゆらのもあわてて、手を合わせる。

 その目の前で、にこゑは、とはゑの前に置かれた箸を手に取った。

 ゆらのの視線が、自然とそのなめらかに白い手の動きを追いかける。

 にこゑは、とはゑの箸で餃子をひとつ、きれいにはずしてつまみ、しょうゆが差された小皿に持っていく。

 そしてその餃子は、もちろんながら、大きく口を開けたとはゑへの捧餉ささげとなった。

「あの、外でも、にこゑさんが、とはゑに食べさせるんですか?」

 ゆらのが少しげんなりとして、疑問を口にした。

 外食でもこの様子だなんて、にこゑがいなかったらどうするんだろうかと、ゆらのは頭を痛ませる。

「他所だから、わたくしは自分で食べるわよ?」

 自分で言う通り、とはゑの口に白米を追加で与えたにこゑは、箸を持ちかえて自分で餃子をつまみ、歯を立ててぴったり半分を口に入れ、もう片方を小皿に置いた。

 食べさせ合いではないのに、安堵すべきかあきれるべきか、ゆらのにはすぐに判断がつかなった。

「ああ、そうね。ちょうどいいから、今言っておきましょうか。学校では、ゆらの、貴女がお願いね」

「はい?」

 いきなりお願いをされて、ゆらのはすっとんきょうな声しか出てこなかった。

 そんな彼女にかまうでもなく、にこゑは水餃子のお椀をとはゑの唇にそっと当てた。

 こく、こく、と、とはゑはのどを鳴らして、出汁を味わっている。

「お願いって、なにをですか?」

「察しが悪いのね。とはゑの食事をお願いね」

「……はい?」

 意味はわかる。つまり、今、にこゑがしていることを、ゆらのにやってほしいと、そういうことだ。

 だけど、あまりに常識外れなそのお願いに、ゆらのは理解が追い付かなかった。

 とはゑは、友だちと話しているお姉ちゃんをじれったそうに見つめている。ちらちらと、湯気を立てる焼き餃子に目を惹かれながら。

 にこゑは、そんな妹の愛らしい仕草を見逃すはずもなく、すぐに望まれたものをとはゑの口へと運んだ。

「あの、まって。待ってください。とはゑだって、自分で食事できるようにならないと、将来困りますよ?」

 なんでこんな至極当然なことを、大まじめに言わないといけないんだろうと、ゆらのは大いに頭を悩ませる。

 おいしい餃子を食べているのに、頭痛がしてくるなんて初めてのことだった。

 その横で、話題の中心になっているとはゑは、妙乃の餃子があまりにおいしくて、ほっぺたが落ちないように自分の両手でおさえている。

 にこゑは、ちらりと、ゆらのに細めた視線を流した。

 それは美しいからこそ怖ろしく思えて、ゆらのはびくりと肩を跳ねさせた。

「そうね。実際に見て、納得した方がいいかもしれないわね」

 にこゑが、気が乗らないとばかりに重苦しく言葉を落とした。

 あの、にこゑが、だ。

 とはゑは、全く自分の食事を進めないお姉ちゃんを心配そうに、そして自分にご飯がもらえなくて切なそうに、見つめる。

 にこゑは、めずらしく影のあるほほえみを、とはゑに向けた。

「とはゑ、自分で食べていいわよ」

 ぴくん、と、とはゑが背筋をのばして、にこゑの顔をまじまじと見つめた。揺れる瞳の光だけが、いいの、と雄弁に問いかけている。

 急なお許しに、人形のように固まったとはゑの手に、にこゑは優しく彼女へ食事を運んでいた箸をにぎらせる。

 とはゑは、それはきれいな持ち方で、自分の手にした箸を眼前に持ち上げた。

 筆記用具とちがって、箸の持ち方はちゃんとしているんだ、とゆらのが場ちがいなところに目を向けていた、その次の瞬間に。

 大皿にあった餃子が三つ、消え失せた。

「え?」

 とまどうゆらのだが、その人並外れた動体視力は、はっきりと、ゆらのの箸が一つずつ順番にさらっていったのを、確かに見ていた。

 三つが、一秒の半分よりも短い間に、とはゑの口へと運ばれたのだ。

 そして、そんな機敏な動きをしたのは、まちがいなく、とはゑだった。

 はぐはぐと、ほほ袋をふくらませたとはゑが、口の中の餃子をかんでいる。

 そして、とはゑの茶碗に盛られた白米が、ひょいひょいと三分の一くらい消えた。これも、とはゑがすばやい箸さばきで口に入れたのだ。

 もぐもぐ、と、会津の農家さん自慢のコシヒカリが、とはゑの口の中で形をなくしているのが、よくわかった。

 最後に、とはゑは、すっと水餃子のお椀をすすり、ちゅるん、と水餃子も口に入れた。ごくんとのどが鳴った瞬間には、また大皿の焼き餃子が五つも消えていた。

 ぼう然と見ているしかできなかったゆらのの前で、とはゑは自分の手にした茶碗を切なく見つめる。そこにはもう、白米は存在しなかった。

 すると、とはゑの手から、するりとお茶碗が持っていかれた。

 妙乃は、たくさん食べる娘のお友だちのために、今度は大盛りにした白米をよそって、その手に乗せた。

「あり、がとう、ございます」

 いつもより、少し鮮明な声で、とはゑは妙乃にお礼を言う。

 そして、周囲がほっこりと心をなごませた瞬間には、焼き餃子が四つと、お茶碗に盛られた白米の上半分が、とはゑの口にほおばられていた。

 妙乃は、自分の手料理をおいしそうに食べるとはゑに、にっこりと笑顔を咲かせている。

 ゆらのは、テーブルに置かれた空の大皿を、たっぷりと三秒見つめてからやっと、そこに餃子が一つも残ってないのを理解した。

 キッチンのフライパンからは、まだ水が跳ねる音がしている。

 とはゑは、自分でほぼ全てを食べつくした大皿と、空っぽのお茶碗とお椀を順番に見て、じんわりと目泉みづみをあふれさせて瞳をうるませた。

 ゆるゆると、とはゑの首が、ゆらのへ――ゆらのが左手に乗せた白米が湯気を立てるお茶碗へと、向けられた。

 ひぐ、と、ゆらのは息を飲んだ。

 とはゑは、ひとりぼっちにされたうさぎのような、悲しそうでさびしそうなまなざしを、ゆらののお茶碗に向けている。

 でも、とはゑは、他の人のご飯を取ってはいけないと知っているから、身じろぎもしない。

 それでも、やっぱりお腹といっしょにこころいたまま、まだ満たされないとはゑは、それがほしくて、それを食べさせてもらいたくて、たまらなかった。

「とはゑは、どんなに食べても、満腹にならないの。自分で食べるだけでは、どうしても物足りなくて、心が透いたままで、それが空腹に繋がってしまうのよ。だから、捧餉を食べさせて、自分が大事にされているって満足させてあげないと、そうやっていつまでも欲しがってしまうのよ 」

 たんたんと、にこゑがこの状況を、そしてどうしてゆらのを頼りにしたいのかを、説明する。

 じっと、自分じゃなく、自分の手元を見つめて、瞬きもしなければ呼吸しているのかもあやしいくらいに動きもしないで、それなのに涙が落ちないけれどはっきりとうるんで光が跳ね映える目をしたとはゑを見ていたら、ゆらのはどうしていいのかわからなくて、かわいた笑いで口がかすれる。

「言っておくけど、わたくしは、そのとはゑの目を見て、耐えられたことは一度もないわ」

「……すみません、あたしもムリです。ごめんなさい、まちがってました」

 ゆらのは、自分の中の常識に白旗をあげさせて、やっと焼き上がった餃子を一つ、箸で取って、とはゑの口元に持っていく。

 きょとん、と、とはゑは、差し出された餃子を見て目を丸くして。

 それから、こわごわと、ゆらのの顔をうかがった。

「いいよ、とはゑ。食べさせてあげる」

 ゆらのから、そうお許しが出たから。

 とはゑは、勢いよくゆらの箸に食い付いた。

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