∞第42幕∞

 上光かみみつの未言巫女が、なめらかに白い手をのばし、未言草子の最初のページから、ゆらのの手によって綴られたとはゑの詩を、慈しみながらなでる。

「どうか、この詩を二人で詠み上げてくれまいか」

 上光の切なる願いに、とはゑとゆらのは、お互いの瞳を見合わせた。

 そしてどちらからともなく、うなずき合い、とはゑの右手とゆらのの左手が指をからめた。

 とはゑは左手を見台として、未言草子を目線の高さに上げる。

 二人はほほがふれそうなくらいに顔を寄せ合って、二人で綴った詩をのぞき込んだ。

 ゆらのがキャップをしめて右手に持った命宝みょうほうの万年筆で、最初の文字にふれる。

 とはゑが小さく息を吸う音を聞いて、ゆらのは発音が遅れないようにくちびるを軽くゆるめた。

〈黎明に未だ世は暗く

 雲は薄く空を覆いて、まさに夜を顕して朝に障る

 太陽はまみえず

 ただ灼緋の上光が一筋の線条を差し伸べる〉

 出だしは、とはゑがリードして、ゆらのが後を追う。

 自然、わずかな輪唱となって添音そおとが未言少女二人の声の合間を行き来する。

〈人々の瞼も、空にかかる雲と同じく

 瞳に陽を映すことを拒み、未だ夜なりと眠りに耽る

 安らかなる夢海は永遠を招くように甘美で、明けなる緋を迎えることを願わじ

 それは無明なる人々のただ続く何もなき盲目なる穏やかな日々よ〉

 次第に、ゆらのがとはゑに追い付いてくるのにしたがって、添音は優雅に身を引いて舞台袖から降りていった。

 完全に重なり合った未言少女たちの声は、一つの音となって、詩と紡がれていく。

〈人々よ

 東雲に隠されたる旭は、今はまだ昇らずと言うか〉

 とはゑは責めるように気高く、言いつのった。

〈人々よ

 見えぬ太陽は、存在しないのだと思いたるか〉

 ゆらのはうかがうように品をもって、問いかけた。

〈人々よ

 閉じた瞼を越えて、瞑りし闇を払う光を、あなたたちは見ただろう

 それを雲が遮ろうとも、雲なき空を射貫いて来るとも

 瞼の奥に光が差せば、あなたたちはいつだって、目覚めてきたであろう〉

 少女たちのうったえを聞き届けるのは、ほんのわずかな存在だけだ。

 上光の未言巫女、ゆらのを選んだ无言むこと、とはゑを見いだした芽言めこと、とはゑを見守るにこゑ。

 そのどれもが、とはゑとゆらのの味方だった。

 少女たちの陳情を浴びせられるべき人々は、ここにはいない。

〈人々よ

 どれほどの雲に遮られて、空の彼方に散らされて、それでもなお辿り着く光があるのだから〉

 その事実に、少女たちはまだ気づかないれども、いな、気づいていないからこそ。

 とはゑとゆらのは、今は一つの想いに声を合わせて、謳う。

〈覚めよ、〉

 自分たちの誓いに疑いはなく。

〈起て、〉

 自分たちの願いを真っ直ぐに想って。

〈そして見よ〉

 自分たちの持てるかぎりを、祈りにこめる。

〈東より来りて今日の始まりを堂々と宣言する朝陽は、そう、確かに雲に隠れて見えないだろう

 けれど、東雲を緋色に焦がすものがなんであるのか、知らぬはずがない

 中天の雲を紅に炙るものがなんであるのか、知らぬはずがない

 雲を越えて景色を黄金に上塗りしていく上光が何から放たれたのか知らぬ者は、けしていまい

 ただ知っていても、それを口に出さないだけである

 されど、言葉にされずにあれば、あなたたちはそれを世界の一部として享受できていないのだ〉

 世界は悲しい。そんな気持ちが少女たちの胸にうずまく。

 分かり合えることなんて、少ない。分かろうとしてくれる人は、少ない。

 多くの人が知らないモノには目も向けずに、そこにあるんだと指差す者を、うっとうしそうに横目で見過ごしてすれ違い、立ち去っていく。

〈雨降らすよな厚い雲に覆われて

 翳り地の中で不安に縮こまるその時も

 人々よ

 あるいはあなたたちは、その時こそ、太陽はわれらを見捨てたと思うのかもしれないが〉

 それでも、とはゑは、自分の想いを文字にそのまま表してくれたゆらのを、心から信頼している。

 それでも、ゆらのは、この心の重なりがとはゑとの確かな絆なんだと確信している。

〈人々よ

 己の手を見よ

 己の足を見よ

 友を見て、家族を見よ

 いかに深く雨が世界を綴じるとしても

 真昼の時刻に

 あなた自身が見えないことがあろうか

 あなたのそばにいる者が見えないことがあろうか

 あなたがいる大地のどこまでが見えず、そしてどこまでは見えるのか、よくよく確かめて見るがいい

 人々よ

 知れ

 わたしたちは、光あればこそ、この目で見ることができるのだということを

 その光がいったいどこからもたらされたのかを

 その光をいったいだれが授けてくださったのかを

 人々よ

 あなたたちは、確かに知っているだろう〉

 わたしたちあたしたちは、確かに知っているんだ、と少女たちは胸を張る。

 孤独ではないことを。

 大切な人と命の根源から結ばれることが、こんなにも、暖かくて、頼もしくて、揺るぎなくて、勇気になって、慈愛になるんだということを、確かに知っている。

〈それは母の腕のように慈悲深く

 ありとあらゆる生と死と

 ありとあらゆる物と事と

 ありとあらゆる君と私と、そして誰かも余さず

 いつもいつも抱擁している

 宇宙の始まりに起こった爆発は光となりて

 今も宇宙の全てを満たして

 宇宙を押し広げていく〉

 とはゑの意識と、ゆらのの意識は、二つの光が混じって区別がなくなるように、分けへだてがなくなっていた。そしてその意識は、世界を包む上光となって、見えるはずもない宇宙の彼方までの途方もなく広い景色を、見えているような気分になっていた。

〈人々よ

 あなたたちの進む先は、他の誰が未だ通ったことのない、初雪のように道のなく、秘奥の地のように密林に閉ざされたものであったとしても

 普く満ちる光によって照らされているのだから

 けして見えないということはない〉

 だれも知らなくて気づかない、未言のことを、未言少女の二人だけが、対峙して、救うことができる。

 それは日常の平穏という、平和な世界を守ること。

 それは心が満たされて歓喜する、幸福な人生を築くこと。

 だれも、なんにも、教えてくれないのだとしても、とはゑとゆらのは、ちっとも怖くはなかった。

〈人々よ

 慈悲深く、偉大なるものは、命が居場所を見失わないように

 上光を以て全てを明らかにしているのだ〉

 だって、二人は、ふたりなら、世界だって救えちゃいそう、って布団の中で一緒に笑い合った仲なんだから。

〈人々よ

 もしあなたが何も見えないというのであれば

 それは安らかに休み眠るべき夜であるか

 あなたが自らの目を閉ざしているか

 そのどちらかでしかないのだ〉

 だれかが未言のことをなんにも知らなくたっていい。

 二人は、きちんと知っている。

 知っている者が、やり切っていけばいいだけなんだと、今なら想える。

〈上光よ

 ああ、上光よ

 旭を遮る雲を貫いてわたしたちを包む上光よ

 上光、そなたがあればこそ、わたしたちは偉大なる光の根源が、確かにそこにあることを知る

 直接は見られずとも、上光よ、そなたが知らしめてくれる

 わたしたちはなんと感謝をすればよいのだろう

 わたしたちは何を捧げれば君を讃えられるのだろう

 わたしたちはどのようにしてそなたを喜ばせることができるのだろう

 上光よ

 わたしは知っている

 上光が包み、見えるようにしたもの全てが、歓喜に笑い舞い踊り、歌いはしゃぎ、前へ、前へ、希望へと進んでいく姿を見ることこそが

 何よりも君を命の底から歓喜させるということを!〉

 二人の未言少女は、声を合わせて、高らかに宣言した。

 これが未言少女の姿なのだと。

 いつしか、上光の未言巫女は、とはゑとゆらのに目線を合わせる高さで、空中に正座していた。

 背筋をのばし、手は太ももの上で指の先だけ重ねて合わせられていて、真っ直ぐに光を宿した黒い目が、未言少女を見て、細められている。

 朝一番の景色を見て、声を失いただ空気をひたすら吸うみたいに、とはゑもゆらのも、白い息だけをしていた。

 上光の未言巫女は、清楚に頭を下げ、お辞儀した。しゃらりと、頭に乗った冠の金の飾りが音を立てて身を崩す。

 そして上光はその体のはしっこから、揺らいで形を溶かしていき、溶けた光が未言草子へと収まっていく。

 上光の全てを白紙だったページに綴り終えた未言草子は、ひとりでに、ぱたんと表紙を閉じて、とはゑの手のひらの上で眠るように重みをあずけた。

 とはゑとゆらのが、一緒になってその未言草子の本を見つめ。

「もしかして、上光を収められたの?」

 ぽつりと、ゆらのが今の出来事を確かめようと言葉にしてみた。

 とはゑも、よくわからないながらも、あいまいに、でもちゃんとできたという実感も持ちながら、うなずいてみせた。

 がばり、と、ゆらのが顔を上げて、とはゑを見た。その顔は、まさに満面のかがやきにあふれかえっている。

「やった! やったよ、とはゑ!」

 そしてゆらのは、飛びかかるように、とはゑの体を抱きしめる。

 とはゑは、しばらく、きょときょと、と、目を丸くするばかりであったけれども。

 でも、ゆらのが喜んでいるのが、どうしようもなく嬉しくて。

 ゆらのの体を、両手で抱いて包んで、しっかりと受け止めて、幸せそうに体を揺らすのだった。


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