∞第38幕∞
とはゑは、左手をのばした先に浮かぶ
とはゑが未言草子をかかげる。
彼女の手に納まった書は、自ら表紙を開き、最初の白紙を広げた。
〈黎明に
雲は薄く空を覆いて、まさに夜を
太陽はまみえず
ただ
とはゑの口から世界に満ちていくのは、まるで祝詞のような詩であった。
上光はとはゑの姿を何一つ見逃すまいとしているのか、瞬き一つ、身じろぎ一つしないで、姿勢を正している。
ゆらのは、その一声一声がそのまま胸の中に
〈人々の瞼も、空にかかる雲と同じく
瞳に陽を映すことを拒み、未だ夜なりと眠りに耽る
安らかなる
それは
とはゑがくちびるをなめて、しめらせた。
そして、うでをさらにのばして、上光の未言巫女に捧げるように未言草子をかかげる。
白衣の袖がその途中で足りなくなってすべり落ち、とはゑの健康的に色づいたうでがひじまであらわになった。
〈人々よ
人々よ
見えぬ太陽は、存在しないのだと思いたるか
人々よ
閉じた瞼を越えて、
それを雲が遮ろうとも、雲なき空を射貫いて来るとも
瞼の奥に光が差せば、あなたたちはいつだって、目覚めてきたであろう
人々よ
どれほどの雲に遮られて、空の彼方に散らされて、それでもなお辿り着く光があるのだから
覚めよ、
とはゑが力強く、世界に、そしてそこに生きる者達全てに、ゆらのが心臓を跳ねさせるほどの勢いをもって呼びかけた。
雲の向こうで太陽がとはゑに応えたかのように、上光は白く鮮烈さを増して輝きで辺りを包んでいく。
あるいは、まさに上光の未言巫女がとはゑに心打たれてそうしたのであろうか。
〈東より来りて今日の始まりを堂々と宣言する朝陽は、そう、確かに雲に隠れて見えないだろう
けれど、東雲を緋色に焦がすものがなんであるのか、知らぬはずがない
中天の雲を紅に炙るものがなんであるのか、知らぬはずがない
雲を越えて景色を黄金に上塗りしていく上光が何から放たれたのか知らぬ者はけしていまい
ただ知っていても、それを口に出さないだけである
されど、言葉にされずにあれば、あなたたちはそれを世界の一部として享受できていないのだ〉
ざり、ととはゑのブーツが地面をかいた。
小さな肩が、大きく吸い込んだ息につられて、一度盛り上がる。
〈雨降らすよな厚い雲に覆われて
人々よ
あるいはあなたたちは、その時こそ、太陽はわれらを見捨てたと思うのかもしれないが
人々よ
己の手を見よ
己の足を見よ
友を見て、家族を見よ
いかに深く雨が世界を綴じるとしても
真昼の時刻に
あなた自身が見えないことがあろうか
あなたのそばにいる者が見えないことがあろうか
あなたがいる大地のどこまでが見えず、そしてどこまでは見えるのか、よくよく確かめて見るがいい
人々よ
知れ
わたしたちは、光あればこそ、この目で見ることができるのだということを
その光がいったいどこからもたらされたのかを
その光をいったいだれが授けてくださったのかを
人々よ
あなたたちは、確かに知っているだろう〉
とはゑがどうして声を張り上げるのかと言えば、それは思い出してほしいからだった。
自分がここに存在していると言う、どんなことにもくつがえされない歓喜を。
自分がここに存在させてもらえているという、なににも代えがたいことへの感謝を。
とはゑは、命の限りに謳い上げる。
〈それは母の
ありとあらゆる生と死と
ありとあらゆる物と事と
ありとあらゆる君と私と、そして誰かも余さず
いつもいつも抱擁している
宇宙の始まりに起こった爆発は光となって
今も宇宙の全てを満たして
宇宙を押し広げていく
人々よ
あなたたちの進む先は、他の誰が未だ通ったことのない、初雪のように道のなく、秘奥の地のように密林に閉ざされたものであったとしても
普く満ちる光によって照らされているのだから
けして見えないということはない
人々よ
慈悲深く、偉大なるものは、命が居場所を見失わないように
上光を以て全てを明らかにしているのだ
人々よ
もしあなたが何も見えないというのであれば
それは安らかに休み眠るべき夜であるか
あなたが自らの目を閉ざしているか
そのどちらかでしかないのだ〉
とはゑが、命をはきだすように、荒く息をせきこんだ。
ゆらのは思わずとはゑに寄り添い、その右手をにぎる。
そしてその小さな背中をなでて、ひどくこわばっているのに気づいた。
一人じゃいけない。
とはゑだけに背負わせてはいけないと、今さらながらに気づいた自分に歯噛み、くやしさを噛み殺して、ゆらのは手のひらから、自分の力がとはゑに届くようにと、強くにぎりしめる。
それを、とはゑもしっかりとにぎり返した。
ふれあった手から、お互いに向けて、燃えたぎるような命の熱が通い合った。
とはゑは、
それは背中からも伝わる肺のふくらみとゆるみとして、ゆらのの手のひらにも伝わった。
後ろにいて見えないけれど、とはゑは確かに、ゆらのが安堵でほほをゆるめるのを知った。
〈上光よ
ああ、上光よ
旭を遮る雲を貫いてわたしたちを包む上光よ
上光、そなたがあればこそ、わたしたちは偉大なる光の根源が、確かにそこにあることを知る
直接は見られずとも、上光よ、そなたが知らしめてくれる
わたしたちはなんと感謝をすればよいのだろう
わたしたちは何を捧げれば君を讃えられるのだろう
わたしたちはどのようにしてそなたを喜ばせることができるのだろう
上光よ
わたしは知っている
上光が包み、見えるようにしたもの全てが、歓喜に笑い舞い踊り、歌いはしゃぎ、前へ、前へ、希望へと進んでいく姿を見ることこそが
何よりも君を命の底から歓喜させるということを!〉
いつしか空の雲を光らせていた上光は全て、穏やかになりをひそめていた。
朝は当たり前のように、いつもながらの明るさで、けして黄金のように辺りを輝かせていない。
そもそも、雲はもう散り散りになって、青空とまだ目線の高さにいる太陽がはっきりと見えるようになっていた。
朝日は小鳥のさえずりのように、つつましく世界のまどろみを揺さぶっている。
その代わりに、とはゑの手のひらに乗った未言草子の最初のページが、こんこんと光をあふれさせている。
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