∞第37幕∞

 やがて、ゆらのの方がたえきれなくなって、ほほを上気させて顔をそむける。

 それを、とはゑがふしぎそうなまなざしで見つつ、首をこてと倒した。

「え、えと、契約はすんだのね! ほ、ほら、はやく上光かみみつを、上光を……上光をどうするんだっけ?」

 いたたまれなくなって、話を本題に戻そうとするゆらのだけれども、そもそも彼女はその本題がどのような行為なのかを知らなかった。

 あわてたように言葉を発しながら、最後には行き先を見失って途方に暮れる声の弱さに、上光がこっそりと笑いを含む。

はいくらでも待っておるのだがな」

「いや、ダメでしょ。朝日が登っていかないで昼にならないとか、フシゼンよ」

 ゆらのの言葉を聞いて、とはゑは、そうかなぁ、となんでも知っているお姉ちゃんに視線だけで問いかけてみた。

「別に太陽が上光しか施さない一日だってあるわよ。曇り空なんて、大して珍しくもないわ」

 そしてにこゑは、すんなりと、太陽が雲の御簾の奥にひかえたまま、顔を見せないで過ぎる一日が普通にあり得ることを告げる。

 そうだよね、ととはゑは、うんうんと素直にうなずいていた。

「と、とはゑ! 納得しないで! ほら、えーと、未言みことを、その」

 ゆらのはどう言えばいいのか、ほとほと困って、芽言めことに助けを求めて視線を送る。

 芽言は、開いていた新芽をまた閉じて、角を失いながらも、見た目だけは元通りに戻したところで、やれやれと首を振る。それで中身のない空洞の袋角がゆらゆらと所在なさげに揺れた。

「未言を、未言草子みことそうしに綴るんですの」

「そう、それ! 未言をつづらないと!」

 ゆらのは、芽言の言葉をそのまま繰り返して、はたと止まった。

「え、それどうやるの?」

 具体的な行動が全く想像できなくて、ゆらのはまた芽言の顔を見た。

 无言むことがその視線の間を通り過ぎて、方向転換し、そしてゆらの顔にぶつかって霧散した。

「わぷ……な、なにするのよ、无言」

「からかわれてるわね」

 にこゑは一人でせわしなくしゃべっているゆらのを、無表情の一言だけで表した。

 それでゆらのは、また赤面してぷるぷるとふるえながら口をつぐむ。

 とはゑは、ゆらのの話が終わったのを確認して、もう始めていいのかなと、深くうなずいてみた。

 芽言を受け入れて飲み下したとはゑには、自分の役割が、自然とわかっていた。

 とはゑが、両の手のひらを、ゆっくりと合わせる。

 その間に、ひらりと鴇色のやわらかな色合いをした本革の栞が、風に吹かれてきたように、納まった。

 とはゑは、祈りをこめて、瞳を閉じる。

 深くはいた息が、指先に当たって立ちのぼり、とはゑの眼鏡を一瞬だけ曇らせた。

 その眼鏡にかかったもやが晴れた時、おごそかにとはゑは氷銀ひぎんの瞳を開く。

〈未だことばにあらざりけるを〉

 上光が白く雲を透き通り、家々の壁を黄金に染め上げる、静かで空気のきらめく寒い会津の朝の中を、とはゑの絹がこすれるような声がしんとしみこんで行った。

〈かつて納めたりし書よ〉

 とはゑの手のひらの中で、本革の栞がじんわりと熱を持ち、そしてふくらんでいく。

 とはゑは、広がろうとする栞に逆らわず、合わせた手のひらを、芽吹きのように開く。

〈今再び、命が誓い願う祈りを綴るに相応しき姿を想い象れ〉

 鶴が優雅に舞う前に翼を広げるのをまねて、とはゑが腕を開いていく。そうして生まれた空間の中で、栞は大きくなり、表と裏に別れて開き、ばさばさとその間に白紙のページをめくり復元していく。

未言邂想リフィール!〉

 謳うように、とはゑが凛音りんとをひびかせた。

 そのロングトーンは、鶴の声よりも細く気高く長く、上光が満ちる空と街のすみずみまでのびていって、まだ眠りの静寂に凍る世界を、たった一人で駆け巡った。

 三千のページをはためかせていた未言草子は、淡い鴇色をした本革の表紙をぱたんと閉じて、全てのページを今ここに綴じた。

 とはゑが左手を差し出せば、執事のようにうやうやしく、その手のひらを乗る。

 その姿が余りに麗しすぎて、ゆらのは息をするのも忘れて、命そのものに焼き付けていた。

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