∞第36幕∞

 大好きなお姉ちゃんを見て、とはゑはぱたぱたと駆け寄った。

 にこゑは、とはゑを両腕で受け止めて、さらさらと髪をなでる。

「いや、あの、にこゑさん、あたしたちのこと見送ってくれましたよね?」

 おずおずと、ゆらのがもう一度、にこゑに問いかけた。姉妹のふれあいに割って入ったら、特ににこゑの方がどんな反応を返すのかと、気おくれしているようだった。

「ええ、見送ったわよ」

 しかし、にこゑはいたってなごやかに返事をしてきて、ゆらのはほっと息をつき、そしてすぐにツッコミを入れる。

「いやいや! あとはあたしととはゑに任せてお家で待ってるとか、そういう流れだったのでは!?」

 にこゑは、はぁ、と残念なものを見るように溜め息を白くたなびかせた。

「ゆらの、貴女、わたくしがとはゑの一番の見せ場を見逃すとでも思ったの?」

「いえ、まったく」

「分かってくれて嬉しいわ」

 言われてみれば、考えるまでもなく、にこゑはそういう人格をしている。

 自由気ままというか、自分本位というか、常識にも人の意見にも左右されない。

「じゃあ、ゆらのも納得したことだから、とはゑ、芽言めことと契約してあげなさいな」

 とはゑは、こっくんと、お姉ちゃんにうなずいた。

 上光かみみつが世界を黄金に光景ひかりかげいている中を、とはゑはゆっくりと歩き、芽言の元へ向かう。

 少女が足を前に出すたびに、緋袴のすそは、ひらり、ひらりと跳ねてブーツのひもを見せた。

 とはゑは芽言の前に立つと、うやうやしく頭を下げる。それはまさに巫女が神より言霊を頂くような姿だ。

 芽言のひたいにのびる、新芽に包まれていた角が、花が咲くように開いていく。

 その内側に秘められていたのは、果実のようにみずみずしいやわらかな芯だった。

永久会とはゑ、わたくしを手に乗せますの」

 とはゑは、芽言の言葉に素直にしたがって、手杯てつきを作って芽言を乗せた。

 芽言は、蜜にうるおう角を、とはゑの口へ差し出す。

 とはゑの唇が芽言の角をんでぬれる。

 しゃくり、ととはゑの歯が芽言をかじる。

 芽言は、頭をつき出して、とはゑが噛んでなくなった分だけ、角をとはゑの口に押しこんだ。

 しゃく、しゃく、ととはゑは芽言の角を食べ進めていく。

 そうして角の根元まで食べ終えて、こくん、とのどを鳴らして飲みこんだ。

 その瞬間に、とはゑの心臓が跳ねた。

 視界がちかちかとして、意識が飛んでいるのか、保っているのか、わからなくなる。

 まるで宇宙に投げ出されたみたいに、世界も、景色も、ゆらのも、にこゑも遠く離れた存在に感じられて、未繋みづなしさがとはゑの小さな心を綴じこめる。

 暗転。

 酩酊。

 地面と大空が逆さまになったみたいな感覚がとはゑをおそった。

 目の前の景色が、わからなくなっていく。

 ぷつり、と、自分がとぎれたような気がして。

 すてられた子ネコが段ボールの中で鳴いていた。いっしょに納まっているのは、もう息を引き取った兄弟姉妹たち。

 子ネコは、やさしい少女に抱き上げられて、そのまま息絶えた。

 大きな腕が、子ネコだったものを抱き寄せて、落ちていく。海の真ん中、世界の中心、そこは未世いまだよにいたものが初めに行き着く現世うつしよの入り口、つまりはお母さんの胎の中で。

 呼吸もしないで胎児は眠る。生まれるだけの成長を終えても、まだまだ眠る。もっと眠っていたいと夢海ゆめみに沈んでいる。

 それなのに、無理やりに世界へ押し出されて、赤ちゃんは泣き叫んだ。

 小さな裏山は、幼児たちには大きな冒険の舞台で、木と土と落ち葉の中をひたすらに駆け巡る。

 朽ち深い腐葉土の香り、がどこまでも広がる田んぼを燃やしていく。

 赫。血の色。大きな犬にかじられて、小さな子どもは頭の皮をはがされていた。

 妹の泣き声も、自分の痛みも遠い。ただ赫が暗く視界をおおっていく。

 教室のすみっこで、ぶ厚い教科書を開いている。それは周りの生徒の持つものとはちがうもので、年季が入っていた。もう削除されていた難しい内容が詰まったお下がりの教科書を静かに指がめくる。

 布団の中で、未繋しい夜に怯えている。手首に指をはわせれば、ついさっき切り開いた傷が痛み、生きていることを実感させてくれる。

 きっとはじめからこわれていたんだと、この頃に知った。

 まばゆい光の花びらに、声を失った。桜吹雪がこんなにもきらびやかに太陽の光を跳ね返すだなんて、知らなかった。

 一瞬だけの景色はすぐに風と重力にさらわれて終わってしまった。

 雲の向こうに光がある。だって太陽は見えなくてもそこにあるんだから。

 息をしてる、生きている、嫌なことがある、嬉しいことがある、死んでいく、地球は回り、宇宙も広がっていく、よく考えればこの世に起こる全ては不思議で、当たり前が当たり前にあるのも、誰かが用意したみたいにも思える。

 太陽が一日を終わらせる焼却炉が、夕焼けなのだろう。雲が緋色に焼けて、家々が茜にあぶられる。悲痛な叫びにも見えるし、なにより美しい厳かな最期にも見える。

 わたしの外には空気があって、空気は天空の中に納まっている。天空の外には星々があって、宇宙の中に納まっている。宇宙の外にはなにかがあって、その果ての向こうも外と呼ばれる。その外の外も、やっぱり外で、外って遠くはどこまでも広がっていって、そしてその中には全部を納めている。

 わたしはわたし。だれにもなれない。わたしの意識はわたしの中にしかなくて、外へ飛び出していくことなんてできやしない。だれかの意識がわたしの中に入ってくることだって、繋がることだって、けしてありえない。わたしの意識は、わたしだけにしか存在しないのだから、世界っていうものは、なんて孤独なんでしょう。

 終わる、終わる、全てが終わる。純白の雪におおわれて、なにもかもが区別をなくして終わっていく。絶対零度の底にいたって、総てが全てを終わらせてしまう。

 すべてが失われたそこに、とはゑは沈んでいった。

 こぷこぷと、とはゑのはいた息がうたぐんで、上の方へと離れていく。とはゑから離れていく。手をのばしても届かなくなった泡はもう、とはゑではなくなって、ただの泡になっていた。

 底にとはゑの体が触れた。冷たくてかたい。

 氷と鋼鉄と、土と硝子と、その全てを足して割らなかったみたいな、そんな底だった。

 とはゑは、まぶたを閉じて眠ってしまおうかとも思った。それが最期になるのだと、なんとなくわかった。

 だから。

 とはゑは、手をぎゅっとにぎって、体をよじって反転させて、そのかたい底に向かって殴りかかった。

 新しい友達が教えてくれた。ゆらのが教えてくれたんだ。

 『ふたりなら、世界だって救えちゃいそう』だって、教えてくれたんだ。

 だから、二人になるために、とはゑは、ゆらののところへ還らなくちゃいけないんだ。

 とはゑの、か弱い腕が、何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も、かたい底をたたく。

 跳ね返されるだけだった。

 自分の手が痛むだけだった。でも、痛みは生きている証なんだと、伝えてくれた。

 血が出そうにも、骨が折れそうにも思えた。そうならなかったのは、きっと守ってくれているから。お姉ちゃんの想いが、ゆらのの願いが、お父さんとお母さんの慈愛が、そしてだれかの優しさが。

「第一原則」

 とはゑのくちびるが、はっきりと言葉を放った。大海へ漕ぎ出す船が、離岸するその時のように。

「誰にも、何事にも、決して負けないこと」

 それは偉大なる科学の母であるキュリー夫人が、自分の信念として掲げた決意である。

 同じ決意でもって、とはゑは、両手のこぶしをそろって振り上げた。

 苦労するものが地面をたたくように、とはゑは勝利を求めてふたつの小さなこぶしを、かたい底にたたきつけた。

 ぴしり、と、底にひびが入った。

 罅縁ひびえとなったのは、繰り返し与えた衝撃の積み重ねなのか、たった今心を定めたとはゑの強さなのか、はたまたとはゑを取り戻そうとする者達の祈りか。

 きっとそれは、それら全てだろう。

 小さなひびは、底の向こうに納められていた途方もない水を抑えられず、一息にくだけた。

 湧き出す水が、とはゑの小さな体を押し上げて、あふれ出していく。

 とはゑは、顔も水に押さえつけられて、息苦しくてあえぐ。

 ぷは、と、肺の空気がなくなる前に、はじけるように息をして。

 目の前に、旭を遮って黄金の上光に輝く雲がおおう空が見えた。

「と、とはゑ? え、それ、食べてへいきなの……?」

 ゆらのの声が耳に入ってきて、とはゑはぼんやりと振り返った。

 ゆらのの愛鏡まなかがみに映るとはゑの姿は、光をまとっているようにも見えて。

 とはゑの愛鏡に映るゆらのの姿は、なによりもくっきりと強い存在に見えた。

 二人して、お互いを見詰めて、ただ息を飲む。

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