♪第34幕♪
「でも」
大きく息を吸い込み、静かに呟く。
「『苦手なひとの全てを、苦手だと思う必要はない』」
それは、いつか学んだことのひとつだ。
ぼんやりと突っ立って、
目を開いたゆらのは、確認するように上光へと尋ねる。
その視線は、一本の刀子のようだ。母譲りのそれは、真っすぐに上光へと届く。
「上光。あなたは、誰かを傷つけたり、不安にさせたりするような気持ちはなかったって、そうなのね? 結果的にどうであれ、あなたはこの町をおかしくしたい気持ちはなかった。そう考えて、いいのね?」
上光は、何でもないかのように、ゆっくりと頷いた。
「はじめより、そう言うておる」
ゆらのは、「そう」と小さく言ってから、立ち上がった。
流石に、正座のままする勇気はなかったのだ。彼女の、子どもながら芽生えていたプライドがそうさせなかった、ともいえるだろう。
一度、軽く土ぼこりを払ってから、ゆらのは上光へと向き直る。
そして、頭を下げた。
深く、怒られた幼子のように、頭を下げた。
左右一房ずつ伸ばされた横髪が、はらりと前へ落ちる。
「ごめんなさい」
案外、素直に言葉はすべり出てきた。
「あなたにその気はなかったのに、あたしはあなたを傷つけようとしました。この町がおかしくなっちゃうんじゃないかって、怖かったんです。――ごめんなさい」
自分が悪いことをしたと思ったのなら、すぐに謝ること。
それは、ゆらのが、父や母に叩き込まれた教えだ。同時に、これまでのゆらのが、その身をもって経験してきたことでもある。
上光は、ほんの少し眉を寄せてから、「まあ、良いが」と告げた。やはり、何でもないかのような声だった。
「でも」
ゆらのは、続けて言う。
「あなたが現れたことで、怖い思いをした人もいる。それは、分かっておいて。わざとやったんじゃないことは分かった。だけれども、もし次に、わざと、あたし達の『いつも通り』を壊すようなことがあれば――」
そこでゆらのは、一度言葉を切った。自分のこぶしがふるえていることに、彼女は気がついていた。
目の前には、荘厳たるはじめの未言巫女。その相貌は厳かで、さざ波のごとく、ちっぽけな少女を見つめている。
ゆらのは、つばをのみこむと、はっきりと口にする。
「あたしは、未言少女として、放っておくことはできない」
一瞬、間が開く。
にらみつけるような視線に対し、上光からは何の感情も読み取れない。顔色一つ変えなかった。小さな獣が一匹、前に転がり出てきたような、そんな目で、ゆらのを見る。
ただ、一言、少女の決意に報いるように、
「そうか」
と口にしただけだった。
ゆらのはしばらく、上光の方を見ていたが、何かに納得したように、一度頷いた。
そして、ふらりと態勢を崩す。
「――わっ?!」
自身の状態に、気がついていなかったようだ。情けない声が上がる。足が体重を支え切れなかったらしく、後ろから思いっきり尻餅をついた。
芽言が、思わず両前足に頭をうずめた。
「痛っつう……」
お尻をさするゆらのに、ワンテンポ遅れて、とはゑが駆け寄る。
「だ、ぃじょう、ぶ?」
とはゑの心配に、ゆらのはひらひら左手を振って応えた。
「大丈夫……。は、あは、なんだか、気が抜けちゃった」
訳が分からない、とでも言いたげに、首を傾げるとはゑ。二人を見た上光は、呆れたかのように首を横に振る。
「吾と向かいゐて、しかも諫めとしての力を使ったろう。なれば、腰を抜かすももっともであろうよ」
すると、「諫めとしての力」あたりで、ゆらのが、突然顔を上げた。その頬は、赤く染まっていた。口がわなわなと震える。
ゆらのの足元には、一本の万年筆がある。
通称、「
「
宵のごとく、力を徐々に浸透させ、深めていく力を持つ。
例えば、罠を張り、淡々と獲物を待ち伏せるために用いる。
今、ぽたん、と、菫色のインクが、地中へと吸い込まれていった。
ゆらのは、それを拾い上げると、軽く振る。未だに、信じられない、とでも言いたげな顔をしている。
「うそ、気がついてたって言うの? だって、上光、あなたは地上にあるものを見通せるわけで、なら――」
「たわけ。あまりにも動きが不自然すぎるわ。確かに、吾は地の下奥深くを見通すことは出来ぬ。だが、
そして、ゆらのにも分かるように、ちらと後ろに視線をやってみせた。
「む、むう……」
ゆらのが、うめく。
確かに、地下には、ゆらのが地下深くを通して仕掛けた、〈影く〉の網が張り巡らされているわけで。
(上光が人に悪いことをするようなら、と思ってとっておいた、「とっておき」だったのに! 存在を浮き彫りにする影、〈影く〉なら、上光にだって触れられる、つまり、とはゑが仕留めるまでの時間稼ぎくらいはできる! と思っていたのに!)
作戦を聞いたとはゑは、「よく分からない」という顔をしていたけれども。
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