♪第32幕♪

 駆ける。駆ける。

 紅白の鮮やかな色彩を、未だ静かな町並みに見せつけながら、二人の少女が駆けていく。

 しかしそれらが、町の住人に気づかれることはない。もし、誰かが巫女姿の少女たちを目にしたとしても、その記憶は瞬時に零れ落ちてしまうに違いなかった。

 まるで、月白の鳥が、すぐ横を羽ばたいていったような。

 そんな気には、なるかもしれない。

 旭日は世界を黄金に染め、その光から逃れた夜が、漆黒の影を街に落としている。その中を、ゆらのととはゑはひたすら駆けた。

 移動中は〈无言むこと〉の力を使おう、と提案したのは、ゆらのの方だ。

 未言少女としての活動は、元より人に知られていいものではないだろう。それに、住宅街の中で巫女姿は非常に目立つ。顔見知りに見られでもしたら、顔から火を噴いて逃げ出すことになる。

 そう熱弁するゆらのに、とはゑは最後まで不思議そうな顔をしていたが。

 出勤途中らしき男性の脇をすり抜け、ゆらのは走る。右手には、とはゑの左手がある。

(……ひとりじゃ、ない)

 その事実は、どこまでもゆらのに力を与えてくれる。

 あまり激しい運動には慣れていないとはゑが、息を切らし始めたところで、二人は因縁の場所へとたどりつく。

 あるのは、まっすぐに伸びるシイの木が一本。コンクリート塀によって遮られた、世界の隙間のような地。

 そこに、一筋の光が差している。

 雲の間からのびる、宣託が下る前触れのような光。まだ、そこには、誰の姿もない。

「まるで、呼ばれるのを、待っているみたい」

 ぽつりと、とはゑが呟く。思わずうたぐんだ言葉が、そのまま口をついたようだ。

 ゆらのも、光の差す方を眺める。

 だが、「キレイ」以外の言葉は出てこなかった。何とか表現しようとしたところで、どこかで読んだことのあるような言葉になってしまう。自分が未熟であるように感じられて、ゆらのは、軽く唇をかんだ。

 しばらく空き地を見つめていたが、やがて首を横に振った。数秒目をつむってから、まぶたを押し上げる。

(今のあたしには、これが精一杯、ってことなんでしょう。それに、キレイであることには、変わりない。ああ、でも、やっぱり――とはゑは、きっと、すごい女の子なんだわ)

 隣には、ただぼんやりと立つ友達の姿がある。

 とはゑ。

 ちょっと不思議な、新しくできた友達。

 ゆらのと同じく、未言巫女に選ばれた少女。

 今までのクラスメイト達の中に、とはゑのような言葉を操る子は、果たしていただろうか。

 芽言めことが、とはゑを選んだのも、そんな理由なのかもしれない、ゆらのは思う。

 かの未言巫女の言う、「違う形で未言の言霊を納められる」が、どういったものなのか、ゆらのにはまだ分からない。

 だが、その力が並大抵のものでないことは、簡単に想像できた。

 隣に立つとはゑの手を、そっと握る。ふるえもなく、ただそこにあった左手は、ゆらのの右手を軽く握り返した。

 ゆらのが、口を開く。

「――上光かみみつ

 そして降り立つは、地上を照らす光そのもの。

 後ろで束ねられた黒髪が、緩やかになびいており、その上では、冠が光煌めいている。

 下手をすれば人の目を焼くような、穢れなき千早は輝きを増し、黄金の旭を生地にしたような裳が華やかに早朝の空を彩る。それらを包むのは、雲のように透ける羽衣だ。

 ゆらのは、おもわず目をしばたかせた。

 どうやら、胎の辺りに鏡があるらしい。御衣に隠れ、見ることは叶わないが、その光は確かに、地上を照らしている。

 何度見ても、見慣れない光景だ。

 どころか、その姿を見るたびに、輝かしさを増しているようにも見える。

 美しくて、暖かくて、どこか恐ろしい。

 ゆらのは、不意に「荘厳」という言葉を思い出した。

 父である隆文が、上光について語ったときの言葉だ。

『上光は、非常に荘厳な未言なんです。神の力が満ちて、世界を包むことを象徴しているとも言われています。例え雲に遮られようと、光という恵みを世界に与えるのです。強く、おごそかで、いかめしい。しかし、そこには慈愛が満ちている。……ゆらのには、少し難しかったですかね』

 上光の真白い肌を見つめながら、ゆらのは過去の父の台詞を聞く。

 若かりし頃の父こと隆文は、幼い子どもに対しても、まるで学生に講義をするかのように未言を語った。それを説明するのに、最も適当な言葉を、選んで話していた。

 おかげで、当時のゆらのは、彼の言葉をちっとも理解できなかった。

 ただ、何か大切なことを言われていることは分かったから、その声だけはしっかりと記憶していた。ふと、頭を撫でられたことを思い出し、かなりへんてこな顔をしていたんだろうな、なんて思う。

「おごそかで、いかめしくて――ジアイに、満ちている」

 言葉を口に含めば、それはすとんと、お腹の奥へ落ちていった。どこかで跳ね返ったそれは、ゆらのの中で反響し、全身に広がっていく。

(今なら、分かる気がする)

 上光は、どこまでも安らかな表情をしている。光の秘められた黒い瞳から、感情を読み取ることは難しい。しかし、敵対する意思がないことは、ゆらのにも分かった。

(……今のところは、ね)

 ゆらのは、とはゑの手を引いて、空き地の真ん中まで歩を進めた。

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