♪第28幕♪

 とはゑだ。

 小さな身体は、器用に布団の海を潜り抜け、ゆらのの元へやってきたのだった。

 薄暗く生暖かい空間の中で、とはゑの瞳はぴかぴかと輝いた。まるで、夜空の中で唯一輝くまるで、夜空の中で一際きらめく、シリウスのようだった。

 まりでまどろんでいたゆらのの目が、驚きとともに開かれる。

「とは、ゑ?」

 自分の名前を呼ばれた少女は、ゆっくりと頬を緩めた、ように見えた。

 薄暗い中でも、実際は一センチも動いていない表情でも、その感情はゆらのに届いた。

 ゆらのが不思議そうな面持ちでその間を埋める中、とはゑは、声を送り出す。

「『勇敢に、誠実に耐え抜くものにのみ、幸運は微笑みかける』」

 それは、とある文豪が残した言葉だった。静かな、しかしはっきりとしたその声は、布団の中の少女たちを包み込み、消える。

 とはゑの、ゆらのに向けた、精一杯の労いに、違いなかった。

 それは天外あまとで輝く星のように、ゆらのの中で輝き始める。

 しかし、とはゑの言葉は、まだ終わらなかった。またひとつ、星を投げかける。

 苦しんでいる友だちを救うための、光。

「『友情は数限りない大きな美点を持っているが、疑いもなく最大の美点は、良き希望で未来を照らし、魂が力を失い挫けることのないようにする、ということだ』」

 それは、ゆらのにはまだ難しい言葉。

 とある古代ローマの哲学者が、真の友情についてつづったものだった。

 ゆらのは、目を閉じて、必死にとはゑの言葉を理解しようとする。下唇の下に人差し指があてがわれる。

 とはゑが、「また伝わらなかったのだろうか」とでも言いたげに、首を傾げようとする。

 ――その時、とはゑから、鳴き声があがった。

「ふぁっ」

 ゆらのは、とはゑの頭を優しく抱いていた。

 同年代の少女の台詞は、難しく、発せられた全てを理解できたとは言えなかった。ゆらのは、引用された哲学者の名前すら知らない。

 それでも、とはゑという少女が、酷く愛おしくてならなかった。

 自分のためだけに、せいいっぱい考えられた蜜言の味。それが甘美なものであることに、ゆらのは今まで気がつかなかった。両親からの愛は、彼女にとって当たり前のものすぎたし、こうして一緒の布団で寝るほど仲の良い友だちもいなかった。

 ゆらのは、とはゑの頭を抱え込んだまま、左右にごろごろと転がる。

 何をしたいのか、正直自分でもよく分かっていなかった。しかし、今この瞬間を手放してはならないと、ゆらのの本能が告げていた。この夜がずっと続けばいい、とすら思っていた。

「んぅ!」

 とはゑが抗議の未声みこえを上げたところで、ようやく、ゆらのは彼女を解放する。

 仰向けになったゆらのの上から、とはゑが覆い被さるような姿勢。長い黒髪が、とばりのように垂れ下がった。

 毛布の中でぴんと伸ばされた、とはゑの腕は小さい。必然的に、ゆらのは間近でとはゑの瞳を見つめることになる。

 黒目が大きい。外国の血が入っているのだろうか、色は氷銀。薄暗い布団の中にいるというのに、その瞳孔には確かな光があった。まるで、灰色の雲の中から差す一筋の光、上光のようだ。

(キレイだわ)

 ゆらのは、一言、そう思った。口にはしなかった。

「あ、のね」

 その瞳が、瞬きを繰り返す。

「未言のことは、きれいだと思う」

「……うん」

 そして、とはゑは、ゆらのを見つめ、やはり無表情で、こう言った。

「ゆらのちゃんのことも好き」

 無意識のうちに、ゆらのの喉が、こくり、と動く。

 その言葉は、ゆらのの心を真っすぐに打った。自分にしか向けられていない、自分しか聞いていない、確かな蜜言。

 甘い甘い声は、ゆらのの舌の上でおどり、のみこまれ、食道を通って、彼女の胃を満たしていった。

 でも、なぜか、心が「もっと欲しい」とうめいている。ゆらのにとって、初めての感覚だった。

(……とっくに夕ご飯は食べてしまって、お腹は減っていないはずなのに。不思議だわ)

 ゆらのは、「うん」ともうひとつだけ、相槌を打った。

 腕を伸ばし、とはゑの髪に触れる。つやめいていて、触り心地がいい。どこか天の川を連想させる一房一房を、ゆらのは時間をかけてなぞっていく。

 とはゑの言葉は、それに促されるようにして、たどたどしくもゆっくりと、羽根を広げ始める。

「危な……い、かも、し、れない、け……ど。わたっ、し、ゆらのちゃんと一緒に、未言を助けたい。……わ、たしに……できる、こっ……とを、やっ、て、みたぃ」

 その顔から感情は読み取りにくい。しかし、その想いは今度こそ、ゆらのに伝わっていた。

 ゆらのは、しばらく考えた後、ふっと、とはゑから目をそらす。

 ほのかにゆらのの顔が赤いのは、布団の中にこもった熱のせいだけではないだろう。

 そして、ゆっくりと、小さくつぶやく。

「……いいんじゃ、ない?」

 つっけんどんな物言いになってしまい、ゆらのの口がとがる。

 とはゑの無表情が、ぱっと明るくなった。

立てていた腕を離し、ゆらのの上に乗っかる。「ぐえ」と、少女らしからぬ音が下から響いた。

 とはゑは、本当にできた、新しい友だちを、いつまでも抱きしめていた。

 ――やがて、ぷはっ、と、二人の少女が布団の中から顔を出す。

 どちらからともなく、小さな笑い声があがる。

「今、ふたりなら、世界だって救えちゃいそう。そうじゃない?」

「……ぅ、ん!」

 くすぐったくなるようなおしゃべりは、夜遅くまで続いた。

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