♪第26幕♪

 ざばん、という盛大な音と共に、真っ白な湯気が一気に立ち上った。

「うわっぷ」と声を上げたのは、ゆらのの方だ。

 風呂場に入り、腰を落ち着けたとたんに、お湯を浴びせられれば、誰でもそうなるだろう。熱めに追い炊きされたそれは、容赦なくゆらのを襲っていた。

「と、けほ、とはゑ?」

 艶やかな黒髪を頬に張り付けながら、ゆらのが焦った声を漏らす。鼻にお湯が入ったのか、何度かせきこんだ。

 とはゑはゆらのの顔を覗き込んだが、大丈夫とわかると次の作業に移る。持っていた風呂桶でバスタブからお湯をすくうと、自分の足元に置く。その後、小さな手は迷いなく子ども用のリンス・イン・シャンプーを探し当てた。泡で出てくるタイプのそれは、二回ほど押せば十分だ。

 まるで「ずっと前からこうしてきたんだ」と言わんばかりのスムーズさで、とはゑはゆらのの髪を洗い始める。

 ゆらのは、あまりの手際の良さにしばらくされるがままになっていた。我に返るまでに、数分必要だった。

 「と、とはゑ、自分で、できるから」と、とはゑのお腹を軽く押しのけようとする。が、健康的な色をした肌は、ゆらのが想像していた以上に強情だ。それ自体は柔らかいが、立ち退く気はないようだった。

 わしゃわしゃわしゃ、と頭が泡立っていく。髪の毛がかき分けられ、うなじに指が伸びる。強すぎもせず、弱すぎもせず、ちょうどよい指圧がかかる。

(な、なんなのこの子……?)

 せめて視線を合わせようと顔を上げようとして、泡が目に入りそうになる。とはゑがすかさず泡を抑えたところで、ゆらのは抵抗をあきらめた。下を向く。

 わしゃわしゃわしゃわしゃ。

 耳の裏をとはゑの指がかすめ、思わず「ぴゃっ」と声がもれた。

 とはゑの指は、一瞬止まったものの、再びゆらのの髪の中で騒ぎ出す。ゆらのの毛量が多いせいで、やや手間取っているようだ。

 ゆらのは、「ありがとう」も「ごめん」も違う気がして、照れ隠し程度に手をひらひらと振った。勝手に頭を洗い始めたのは、とはゑの方だ。

 そして、他の言葉を投げかけようとして、何を問いかければいいかわからないことに気がつく。

 「さっき、何が言いたかったの?」と訊くのは簡単だろう。でも、どうしてか十数分前のようには踏み出せない自分がいた。

(そう、よくよく考えたら、あの場面で投げかけられる言葉と言えば――なぐさめ、なんだろうな)

 これまでかけられてきた、友だちからの言葉を思い浮かべながら、ゆらのはそう思う。

 好奇心旺盛である彼女は、今まで何度も失敗を重ねてきた。そのたびに友だちから向けられる、同情と哀れみの視線。それが、ゆらのはとても苦手だった。

 せっかくできた、新しい友だちに、そんなことを言わせたくはなかった。

 ちょっと迷ってから、食べ物の話でもしてみようか、なんて口を開きかけた彼女に、再びお湯の束が降り注いだ。視線を上げようとしていたところの一撃だったものだから、顔面に直撃することになる。

 むせるゆらの。

 ぼやける視界の中で見上げれば、やはり無表情のとはゑと目が合う。

「ちょ、とはえ、せめて合図だして合図! びっくりするから!」

 思わず出た声に、とはゑが少しだけ目を丸くした。久しぶりに、こくり、その頭が縦に振られる。

 再びプラスチック製の黄色い風呂桶に、お湯が張られる。

 とはゑの、蒸気で湿ったくちびるが、なんてことはないように動く。

「かけるよ?」

「は、はい」

 なぜか敬語で答えるゆらの。

 ざぱー、と、下を向いた彼女に、お湯が降りかかる。まだ泡が残っていたのか、とはゑの指が何度となくその頭を撫でた。

 ゆらのは、子犬のように軽く頭を振ってから、「……ありがと?」と顔を上げる。とはゑの表情はやはり読み取りづらいが、どこか嬉しそうにも見えた。

 続いて、とはゑが、ぺたん、と腰を隣に下ろす。そして、ゆらのの方を見た。言葉はない。

 ゆらのは立ち上がって、軽く身体の水滴を払い落とした。

 とはゑはゆらのの方を見たままだ。長いストレートの髪が、風呂場の床に広がっている。眼鏡を挟まない瞳は、普段より大きく見えた。肩は細く、蒸気でほんのりピンク色に染まっている。

 控え目に見ても顔立ちの良い少女が、一糸まとわぬ姿でこちらを見ている。そんな状況に今更気がついて、ゆらのは少しどぎまぎしてしまう。

(よく考えたら、あたしたち、出会ったばかりなのよね。それで、一緒にお風呂に入って、まあ、お互い気にならないわけがない……ん?)

 少し考えてから、思いついたことを口にしてみる。

「……ひょっとして、洗ってほしい、とか?」

 当然のようにこくり、と頷くとはゑ。「なぜそんな簡単なことを聞くのかわからない」とでも言いたげだ。

 ゆらのはしばらく、意味のないまばたきを繰り返していたが、突然噴き出した。ほんの数ミリ眉を寄せるとはゑの頭をかきまわした。柔らかな質感の髪は、ゆらのの指によくなじんだ。

「ふ、ははっ」

 ゆらのはもう一つ笑い声を上げて、シャンプーボトルに手を伸ばした。

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