♪第25幕♪

 ゆらのが目を覚ますのに、そこまで時間はかからなかった。

「ん、ぎゅあ、」

 まぶたを上げれば、目の前には少女の顔がいっぱいに広がっている。

 とはゑだ。自分の、新しい友だち。

(……とはゑ!)

 ゆらのは思わず、布団から上体を起こした。

 そして、

「がっ」

「ふぁっ」

 必然的に、二人の少女のおでこは、ぶつかり合うことになる。

 こん、と、軽い音が、ファンシーな壁紙で囲われた部屋に響いた。

 避けきれなかったとはゑは、やや涙目で額を押さえる。

「ぁうぅ」

 一方、再び枕に後頭部を押し付けることになったゆらのも、「痛っつう……」と呻く。

しかし、ゆらのの方が、ケンカ慣れしている分、復活は早かった。痛みでつむっていた目が、数秒で開く。

 すぐに上半身を起こすと、「あ、うわ、ごっめん大丈夫?」と、とはゑの額をさする。コブにはならなさそうだが、とはゑはまだ涙目だ。

 そこでようやく、ゆらのは、自分がパジャマに袖を通していることに気がついた。

 頭をきょろきょろと振れば、見慣れた勉強机とランドセル、服の入ったタンスが目に入る。全体が桜色で統一された小物たちは、ゆらののお気に入りだ。さっきまで体を横たえていた布団も、普段自分が使っているものだった。

「……え、ここ、あたしの家? なんでとはゑが、あたしの家に? 何であたしは自分の家で寝てんの? いや、自分の家で寝るのは当たり前か、いや、うん?」

 やや混乱した様子のゆらの。とはゑは、額を両手で押さえたまま、小さく「うぃ」と鳴いた。何か言いたげだったが、状況を把握するので精いっぱいのゆらのには、効果がなかった。

 カーテンの隙間からは、月の端っこが顔を覗かせている。

 ゆらのはそこで、ようやく思い出す。

「かみ、みつ」

 はっきり覚えている。

 とはゑが上光かみみつと何かを話していたこと。どうやらケガをさせる気はなかったらしいこと。上光と戦おうとして現れた、あの口うるさい男のこと。彼が持っていた、謎の時計、そして。

「そうだ、あたし――負けたのね」

 ゆらの自身の発した言葉は、布団の上にそのまま落ちる。〈无言むこと〉が発動する直前、何かが起きたのは、分かっていた。そこからの記憶はない。だが、

 无言。

 創造主たる未言屋店主曰く、『言おうと思ったんだけど、手元から記憶が逃げちゃった言葉。ふと気を抜いた瞬間になくなってしまったこと』。

 〈无言〉は、瞬間的に『今、確かに存在していたこと』を、世界から忘れさせる。そして、その一瞬、それは『なかった』ことになるのだ。

 しかし、世界が忘れてしまう以上、その効果は、ゆらの自身にも及ぶ。无言、という言葉の性質上、十数時間ほどたてば、思い出すことは可能になる。が、しばらくの間、ゆらのは、戦いそのものを忘れてしまうのだった。

 時計を見るが、上光と対峙してから二時間も経っていない。

 つまり、无言は、発動していない。邪魔をした人物は、明らかだった。

(まただ。また、あたしは、守れなかった。ひょっとしたら、町がひどいことになっていたのかもしれないのに。あたしは――)

 ゆらのが、握りこぶしを硬くした。唇を噛みしめ、悔しさをにじませる。

 すると、沈み込む友だちを見ていたとはゑが、突然、声を発した。

「――しえて」

 だが、その言葉は唐突すぎて、ゆらのには届かなかった。

 ゆらのは、ぱっと顔を上げたが、そこには真っすぐにこちらを見つめる、とはゑの姿があるだけだった。なぜか、ドヤ顔をしているようにも見える。

「……へ?」

 首をかしげるゆらの。

 とはゑはそのままの顔で、同じように頭を右へ傾ける。「なぜ自分の言葉が伝わらなかったのか、よくわからない」とでも言いたげな様子だった。だが、その小さな口が開くことはない。

 ゆらのも一瞬、聞き返すタイミングを逃してしまい、じっととはゑの目を見つめ返すことになる。

 会話が続かない。

 しばらくの間、ヒーターの稼働音だけが、部屋を満たしていた。

「……とはゑ?」

 しびれを切らしたゆらのは、よく聞こえないよ、と言おうとした。が、その時、ゆらのの後ろで、扉が数度、ノックされる。

「目が覚めましたか、ゆらの」

 がちゃり、と扉が開くとともに、ゆらのの父である隆文が、顔を覗かせた。

「お父さん」

 ゆらのが振り返る。とはゑは、視線だけを声の先に移した。

 隆文は、ゆらのの顔が明るくなったことを確認してから、「二人とも、お風呂がまだでしょう。いってらっしゃい」と言う。首を傾げたままのとはゑの方を、ちら、と見たが、隆文が何か表情を変えることはなかった。

 軽い音を立てて閉まる扉。

 ゆらのは、ややとまどったままの頭で考える。

 とはゑが何か言いたげなのは、ゆらのにも分かった。だが、肝心のとはゑが口を閉ざしてしまっては、聞くものも聞けない。

(緊張、してるのかな。何に? 何だろう、でも、緊張、そう、緊張を解くには……)

「いっしょにお風呂、入る?」

 ゆらのの言葉に、とはゑは顔を上げた。

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