∞第23幕∞

 とはゑは、ゆらのの行動を見た悠が、ズボンのポケットに手を差し入れるのを見た。

 ゆらのは、手にした桜柄の万年筆をまっすぐにかまえて、无言むことがその腕の周りをめぐる。

〈未だ言にあらざる殊を〉

 しゅるりと、无言が体をほどき、散乱した霧がゆらのの万年筆へと吸い込まれていく。

〈未だ言と語られざる時を〉

 悠がポケットから右手を出した時、そこには一つの懐中時計が握られていた。

 布製で、四季折々の草花が和風の絵柄で画かれたカバーに納まり、赤いベルトに繋がった懐中時計だった。

〈未だ言と定められぬかげを〉

 悠の詠唱と共に、その懐中時計は中身をスライドさせて外へ出た。元から文字盤が見えるようになっていたカバーには、空白だけが残る。

 さらに懐中時計の本体に被さっていたルーペが同じようにスライドして展開した。文字盤を見るために、それぞれに存在する円が連なり、無限のシンボルにさらに一つの丸がくっついたような形になる。

 それは、無限光を表すシンボルだと、とはゑは想った。

〈未だ言と記されぬ物を〉

 ゆらのの声に応じて、无言だった霧は全て万年筆へと納まった。そして一拍の内に、羽ばたきのための力を溜める。

〈確かに在りし今と止めむ〉

 悠の手のひらの上で、懐中時計は針を止めた。

〈この彩血あやちに宿して表し現す〉

 无言むことが、万年筆から翼を広げた。

 それはまるでゆらのの腕から翼が生えたようで、天使が弓をつがえたようで、とてもかっこいいと、とはゑは見とれた。

〈无言〉

 だから、悠が魔法を完結させた瞬間に、ゆらのがその姿のまま停止したのが、一瞬気づけなかった。

 刹那の寸前まで、无言の霧は翼の端で揺らいでいたのが、止まっていた。

 すぐにその力を放つはずのゆらのが、止まっていた。

 ゆらのの時間だけが、確かにそこで止まってしまっていた。

 それに気づくやいなや、とはゑは不安を浮かべて悠に顔を向けた。

 彼の親指が、懐中時計から開いたルーペを押していき、また文字盤の上と重ねていく。

 カシャ、とカメラのシャッターを切るような音が鳴った。

 それと同時に、ゆらのの持つ万年筆からほとばしっていた无言が、気のせいだったみたいに消えてしまった。

 ゆらのの体が、力を失ってひざからくずれていく。

 とはゑは、それをただ目を見開いてながめるしかできなくて。

 いつの間にか、ゆらのの背後に立っていたにこゑが、寄りかかって来たゆらのの体を両手と胸で包むように受け止めた。

 とはゑは、あわててゆらのに駆け寄り、顔をのぞく。けれど、とはゑには彼女がどうして急に倒れたのか、まったくわからなかった。

「安心なさい。気を失っているだけよ」

 頼りになる姉にそう言われて、少しははやる気持ちをなだめられたけれど、とはゑは、眠ったようなゆらのを見るとちっとも安心なんてできなかった。

 どういうことなのか聞きたくて、とはゑは、にこゑの顔を見て、そして悠の顔を見た。

 悠は軽くまぶたを閉じる。目礼のようにも見えた。

 けれど彼はすぐにまぶたを上げて、上光かみみつに視線を送る。

 悠に見つめられた上光は、悩ましげに息をついた。

「致し方なし。とはゑ、またあしたにや」

 上光はそれだけとはゑに告げると、軽く両手を広げた。巫女が神託に身を委ねているようだった。

〈上光〉

 悠が、懐中時計の本体部分を親指で押して、カバーに戻すのと同時に、〈上光〉の言霊を声に乗せた。

 カシャ。

 またあの音が鳴り、その一念に、上光の姿が跡形もなく消え去った。

 空にかかっていた雲は風に流れてちぎれて開き、月が丸い姿を煌々と現した。

 まるで、何事もなかったかのように。

 まるで、これこそが元通りだったかのように。

 まるで、あのかっこいい姿と、麗しい景色を切り取って奪われたかのように。

 世界の全てが止めていた時だけを失って、なんの傷も残さずに縷々と流れ続ける。

 とはゑは、ひどい、と不満を込めて悠を見る。

 すると、彼は困り果てたようにまなじりを下げた。

「そんな風に睨むな。ゆうみたいな顔をされると、弱る」

「くすくす。わたくしのとはゑは、とってもかわいくて、でたくなるでしょう?」

「だからと困ると言っている。子供は甘やかさない主義なのに、甘やかしたくなるいい子の相手は苦手だ」

 悠とにこゑが、親しげに言葉を交わす。

 その様子に、とはゑは、彼はやっぱりいい人な気がするとも思ってしまい、けれども、いやいや、あの人は素敵なものを持って行っちゃった、ゆらのをいじめたんだと首を振って自分の中にうたぐんだ好意を振り払った。

「……帰るわ」

 悠は、もう辛抱できないという弱々しい声だけを残して、そそくさと立ち去ってしまった。

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