∞第21幕∞

「その子から離れなさいっ!」

 耳が痛くなるくらいの絶叫といっしょに、ゆらのは右手のこぶしを上光かみみつに叩きつけようとして。

 あらかじめ、ゆらのの存在を確認していた上光は、するりと空へと舞い上がっていき。

 なにもない空間を切って、ゆらののこぶしが風鳥かざどりを鳴かせた。

 攻撃を完全に外したゆらのだったけれども、一も二もなく、上光のことは全く無視して、とはゑの両肩を両手でつかんだ。

「だいじょうぶ!? ケガはない!? あぶないことはしちゃダメだって言ったじゃない!」

 とはゑがなにかを言う隙間を与えずに心配をたたみかけてくるゆらのは、感情のままにとはゑの体を揺さぶっていた。

 その勢いに、とはゑは目を回している。

「こら、わたくしのとはゑを乱暴に扱わないで」

 にこゑは、すぐにとはゑのそばに来て、ゆらのの手から妹をうばい返す。

「かわいそうに、目を回して」

 にこゑは、かいがいしく、ゆらのに乱されたとはゑの服や眼鏡や髪の毛を整えてから、とはゑの頭を優しくなでる。

「ふぁ」

 とはゑは、にこゑの優しい手付きが心地よくて、自然と声をもらして身をゆだねた。

「え、わ、ご、ごめんなさい、えと、ごめんね?」

 ゆらのは、しかられた子犬みたいな顔をして、とはゑの顔をのぞき込んだ。

 とはゑは、弱々しくふるふると首を振って、だいじょうぶと、ゆらのに見せた。

 ゆらのは、上光を見上げて、キッとにらみ、肩から人差し指までまっすぐに伸ばして突き付ける。

「この子に、なにをしていたの?」

「話をしていただけよ」

 冷たく上光へ言い放つゆらのに、後ろから答えが寄越された。

 ゆらのは、伸ばしていた腕を、所在なくゆるめて少しだけ体に近寄らせて、声を放ってきたにこゑに振り返った。

「話をしていただけ……なのです、か?」

「話をしていただけよ」

 ぽかんという音が聞こえそうな顔で聞き返すゆらのに、にこゑは全く同じ言葉を繰り返した。

 ゆらのが、とはゑに向かって丸くした目を向ける。

 とはゑは、こっくりとうなずいて、姉の言葉が真実だというのを伝える。

「ちょっと无言むこと、だから主をちゃんと止めなさいって言ってるの!」

 とはゑの肩に乗った芽言が、空に向かって不平を張り上げた。

 それに答えたわけでもないだろうけど、鳥の姿をかたどった霧が、すぅっと空から流れてきて、ゆらの周りをぐるぐると旋回する。

「无言も相変わらずよな」

 全く言葉を発しないで漂うばかりの无言には、なんでもあるがままに受け入れていた上光も苦笑している。

 とはゑはこんなぐだぐだな空気も楽しんでいるから黙って見ていて、ゆらのはこの行き場のなくなった感情をどうすればいいのかわからずに黙っていて、ただ沈黙だけが辺りに漂う。ちなみに、にこゑは、とはゑが楽しんでいるので、邪魔をしないように黙っている。

 少女たちが思考停止している間、上光は空の上がただただ待ってくれていた。

 やがて、ゆらのがはっと体をゆらして、気を取り直す。

「と、ともかく! 〈上光〉! あなたをここで止めるわ!」

 ゆらのは、またびしりと肩からまっすぐに伸ばした指を上光に突き付けた。

 そのゆらのが伸ばしていない方の左腕に、とはゑがぎゅっとしがみついた。

「え、なに、どうしたの?」

 急にとはゑが抱きついてくるから、ゆらのは、どきまぎしてしまっている。

 とはゑは、ふるふると首を振った。ゆらのを止めようとしているらしい。

「え、なに、なんで?」

 ゆらのは、どうして、とはゑがこんな強硬手段に出たのかわからなくて、とまどっている。

「上光、なにも……して、ない、よ?」

「うっ」

 とはゑの無垢な瞳に見つめられて、ゆらのはたじろぐ。

 でも、それはゆらのを、ためらわせることはあっても、押しとどめることはなかった。

「違うわ。なにもしてなくなんてない。今も、ああやって、空をフシゼンに明るくしているもの! 元に戻さないと!」

 とはゑが、空を見上げた。

 上光も、空を振り返る。

 雲を焼くように月の上光が透けて見える。その光はじんわりと夜の中に染み渡って、街の隅々まで普いている。

「ていうか、そんなに高いところにいるなんてヒキョウよ! 手も足も届かないじゃないの!」

「夜ごとに蹴られていたら堪ったものではないわ」

 声を張り上げて不平をぶつけるゆらのに、上光はからからと笑って、さらに高みまで昇った。

「ちょっと! なんでもっと高くにいくのよ!」

れが諦めるまで昇ってやろうかと思うてな」

「なんですってー!」

 ゆらのは、抗議の声を空まで上げるけれども、上光は一切の配慮なく徐々にその高度を上げていく。

「そっちがその気だって言うなら!」

 ゆらのが、一本の万年筆を取り出した。昨日と同じ、桜の花びらが散るような柄が美しくきらめく万年筆だ。

「おお」

 とはゑが、ゆらのを止めようとしていたのも忘れて、その万年筆に感激の声を上げた。

 ゆらのが、一転して、静かに瞳を閉じて、心を集中させる。

〈未だ言にあらざるを〉

 桜吹雪のように、その内に納めていた彩血を周囲に振り撒いた。

〈今此処に綴るに相応しき色を誓い願う祈りのままに〉

 ゆらのの周囲に散らばったインクがふるえ出す。まるで生まれようとする卵の中の命であるかのように。そしてその色彩を、月明かりの白銀へと変化させた。

〈この一筆に湧き出だせ〉

 小さな粒になっていた彩血あやちが、一斉にどばっと形をくずした。

未言充添インフィル!〉

 ゆらのの周りに浮かんでいた白銀の彩血が全てうず巻いて万年筆へと押し寄せた。とてもその細身の中にあるコンバータに入りきらなさそうな量のインクが、魔法のように飲み込まれた。

 ゆらのが、空を見上げた。

 その視線に切られたように、雲が途切れて、上光が一筋、きざはしとなって地面まで届く。

 ゆらのがそのまっすぐな光へ向かって走り出した。

〈未だ言にあらざる殊を〉

 ゆらのが光の下へたどり着いた。

〈未だ言にあらざる物を〉

 走り込んだ勢いのままに体をよじり、ゆらのは右手に握った万年筆を左わきに抱え込むように引き寄せた。

〈この彩血に宿して表し現す〉

 ゆらのが振るった万年筆が、光を下からすくい上げてなぞる。

かげ!〉

 雲から射した光が、きらきらと輝きの粒を全身に魅せた。それは神の使いが〈差し影〉の中に宿って、その力を少しばかり散らしたようにも思えた。

 そしてその光の柱の中に、上光によく似た〈差し影〉の未言巫女が一瞬だけ透けて現れ、微笑みと共に光の中に宿りこもる。

「ほわぁっ」

 とはゑが、差し影の美しさに声をもらした。

 それを見て、にこゑがくすりと笑う。

「待ってなさい! 今、そこに行くわ!」

 ゆらのが、〈差し影〉に足をかけた。〈差し影〉は、はしごのようにゆらのの足を支える。

 ゆらのがあっという間に〈差し影〉を駆け上がり、上光の未言巫女へとせまる。

 ゆらのが〈差し影〉を蹴り、上光へ向かって飛ぶ。右手を握り、肩ごと回して勢いを加える。

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