∞第19幕∞

 とはゑは、なかなかにご機嫌だった。今日の晩ご飯で作ったオムレツがよくできて、家族みんなに褒められたのだ。

 ほんのりとくちびるの端を持ち上げるにこにこ顔は、家族でない人には普段の無表情と判別できないだろうけど、逆に言えば家族なら見たらすぐに、とはゑのご機嫌なのがわかる。

 機嫌よくゆらゆら左右に体を揺らすとはゑの後ろを、にこゑが通り過ぎて窓に近づく。

 とはゑは、ふらっと振り返って、大好きなお姉ちゃんの動きを目で追った。

 にこゑは、とはゑが視線を向けたら、すぐに目を合わせて、にこりと笑ってくれる。そして窓までたどり着くと、カーテンをさっと開け放って、ガラス戸も続けて、からからと開ける。

 にこゑの向こうに見えた空に、とはゑは目を見開いた。

 雲が薄く空の端から端まで覆っていて、白く浮かび上がっている。何故なら、雲の向こうにある光を吸い込んでいるからだ。

 その光源は、お月様。その姿が座るところの雲は、火で焼けたようにあやめいて輪郭を歪めている。

 月は御簾越しの麗人のように、雲に透けて見えるだけ。それなのにその光は夜を包んでいた。

 とはゑは、にこゑの横に近寄って、窓から顔を出して、その雲の上に隠れた月の光に、心をときめかせる。

上光かみみつ

 とはゑの口から、昨日知ったばかりの未言が漏れた。

 もっと見たいと思った。

 外へ出て、この上光が満ちる空の下を歩きたいと思った。

「とはゑ、お散歩に行きましょうか?」

 そしてとはゑを大事にしてくれる姉は、いつだって妹の胸にうたぐんだだけで、声にならない想いを叶えてくれるのだ。

 とはゑは、一も二もなく元気よく頷き、そしてその後で、はたと気付いて頭を抱えて悩ましさをにこゑに伝えた。

 とはゑは、もうわかっている。

 きっと空の向こうで見えない月のそばには、昨日もあったあの光そのものである存在、上光そのものである言霊、ゆらのや芽言めことが言う未言巫女という彼女がいる。

 昨日、ゆらのに危ないって言われたから、危ないことはしないって約束したから、とはゑはやっぱり外へ行ってはいけないんじゃないかと思い悩んだ。

「とはゑがゆらのと約束したのは、契約をしないことであって、未言に逢わないことではないわ」

 そして、にこゑはさらりと、とはゑがそんなことで悩む必要はないのだと告げるのだ。

 とはゑは、こて、と首をかたむけて、そうなんだろうかと一瞬だけ思いをめぐらせて。

 そしてすぐに、お姉ちゃんが言うんだから本当に違いないと思い、こくんとうなずいて自分を納得させる。

 自分は外へ出てあの美しい光の中を散歩していいのだとわかって、とはゑは、にぽっと笑顔を咲かせた。

「ふふ、それじゃあ、しっかり暖かくしていきましょうね」

 にこゑは、優しくそう言って、とはゑにダッフルコートを着せて、外へ出かける準備を手ずからするのだった。

 そしてとはゑは、そのお返しとして、姉の腕をゆったりとしたローブに通す。それを着たにこゑは、魔法学校の先生みたいになって、とっても格好いいのだ。

 しっかりと防寒着で準備して、にこゑがとはゑの手を取ってエスコートして、階段を降りて玄関に向かう。

「とはゑと散歩に行ってくるわね」

 その途中で、にこゑは、居間へ声だけを覗かせて、その部屋にいるであろう両親に行方を知らせた。

「散歩? 二人で? あんまり遅くならないでよ」

 そしてひょっこりと顔を出した母親に、とはゑは、姉に引かれる手はそのままにして振り返り、残った手を振った。

 そして二人、吐くそばから息を凍らせるくらいに寒い夜空に繰り出した。空の雲に光をにじませる月は、どこからだってよく見えるから、方向を見失うことなんてないし、それに心強い姉に手を引かれているから、とはゑは暗くて静かにすぎる夜の中でも、無邪気にわくわくと期待を胸にふくらませていられた。

 そして溶けていく雪がまだらに残る田んぼが広がる景色の中で、とはゑは再びその存在と出会った。

 雲の向こうの月から降臨したばかりのように、空に浮かび、柔くまぶたを閉じていて、長いまつげに光がかかっている。

 艶やかな黒髪は、淡い光で夜の中に浮かび上がっているけれども、その端はやっぱり夜に溶けて見えづらい。髪は上げて後ろで束ねられ、額を出しているのは、巫女として正式な姿であった。髪を結う組み紐は、月の光を編んだような白銀で、それだけが光を放って後光のようにも見える。

 穏やかな表情は、如何なる情動も伺えずとも、微笑みを連想させた。

 白衣のんだ穢れなさは、そのまま肌の白さにも映っているようで。その上に、千早と呼ばれる見た目には裾の短いコートにも似た真白の布を重ねていて、それが冷たい夜の空気をはらんで、ふわとふくらんでいる。

 緋袴の鮮やかな染まりは、曙に焼ける雲から仕立てたようにさえ思えて。そして腰の後ろからは裳と呼ばれるスカートのような衣装が垂れ下がっていて、その黄金を空気で薄めたような、旭が差し込んだまさにその瞬間を生地にしたような、そのまばゆさが見るものの目を奪う。

 およそ、最も美しい日本古来の女性として想像し得る限りを尽くしたかのような見目麗しさで、やはりそれは存在していた。

「上光」

 とはゑが、おごそかに、やっと見つけた存在を表す未言を夜にこぼした。

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