♪第18幕♪
市内に一つしかない市立図書館には、当然、顔見知りも訪れる。
「……げっ、三栗」
「あ、達也くん」
相手の口から漏れた小さな声は、ゆらのが聞き取れないほどのものではなかった。
まだ変声期の来ていない高音。
身長はゆらのと同じくらい。短く刈られた髪の毛と、切れ長の目。やや意地の悪そうな、右端だけが持ち上がった唇。
児童用の文庫本の前で鉢合わせたのは、クラスメイトの達也だ。
ゆらのは、辞書コーナーであっさり疑問を解消した後、暇つぶしに辺りをうろついていたところだった。
もこもこのセーターを着こんだ達也は、その腕に大量の本を抱えていた。アガサ・クリスティーの伝記、謎かけやパズルが載った本、難しそうな小説。
文庫本も、単行本もある本の塊は、達也の首元のあたりまで差しかかっていた。
「この本、全部読むの?」
「ああ、まあ、うん」
問いかけに、達也は少々とまどった素振りで言葉を返す。他の利用者の邪魔にならないぐらいのひそひそ声が、本棚の間で交わされる。
ゆらのは、達也と図書館で出会ったことに驚いていた。このクラスメイトは、教室や図書館といった室内より、校庭や公園にいる印象が強かったのだ。
達也に近づくと、彼が抱えている本の一冊に目をやる。
「……『Yの非』……ひ……げき?」
まだ習っていない漢字だったが、ゆらのは首を横にしながら読んだ。
さらに話しかけられるとは思っていなかったのだろうか、達也は、「お、そうそう」と、びっくりしたように言った。「さすが、文学少女」とほめる声は、やはり小声だ。
くすぐったそうに、ゆらのが肩をすくめる。
ゆらのは、言葉は好きだったが、図書館にある本の何もかもを読みつくしているわけではない。大人向けの図書のコーナーには、まだ足を踏み入れたことがなかった。読めない漢字だって、知らない言葉だって、たくさんある。
でも、外見の雰囲気や父の職業から、「本の虫」だとクラスメイト達に思われているようだった。それは、去年転入してきた彼だって、例外ではない。
達也は、嬉しそうに一番上に重ねられた本を、片手でつかんだ。もう片方の腕が、本の重みでぷるぷると震える。
「エラリー・クイーンの、『Yの悲劇』。知ってる?」
「知らない。達也くんは、難しい本を知っているのね。ミステリー?」
ゆらのの言葉に、達也が「そうそう。三栗、あんまりこっちは詳しくないのな」と頷く。筋肉に限界が来たのか、本の塊を再び両腕で抱え込んだ。
そして、にっかりと笑う。
「シリーズ作品なんだ。最近ハマッててさ、面白いよ。三栗はもう読んでるかと思ってた」
ゆらのは、両肩をすくめる動作をもう一度繰り返した。
「むしろあたし、達也くんが本好きだったって、今まで知らなかった」
「意外だった?」
「ちょっとね」
正直に答えるゆらの。
達也は、「だと思った」と冗談めかして本の塊を少し上下させた。
この元転入生とゆらのの間に、何かしら友情関係があるかと言われれば、それは違う。
元来我の強いゆらのと、若干名のグループの中でリーダーを気取る達也は、とことん折り合いが悪かった。取っ組み合いの大ゲンカだって、したことがある。
実際、ゆらのは、彼に対して、あまり良いイメージを持っていない。
彼の口の悪さには、ずっとうんざりしているし、強くもないのにケンカを吹っかけてきたこと対しては、未だ理解ができていない。
でも、目の前で本を積み上げ、小さく笑う達也は、どこかずっと知っている友人のようにも思えた。
図書館内の暖房が、柔らかく二人を包む。
いつの間にか、ゆらのの頬はゆるんでいた。
達也が「じゃ、じゃあ、俺行くわ」という言葉と共に、その場を離れていく。何故か急ぎ足だった。彼は、たった今夢から覚めたかのように、目をぱちくりさせていた。
ふと、ゆらのは、傍にあった棚を見る。
そこには、彼女でも名前くらいは知っている、有名な児童向けのミステリー小説シリーズが並んでいた。どうやら、達也はそれを求めてこのコーナーに近づいたらしい。
何を慌てたのか、達也はその小説に目を向けることなく去っていったようだが。
ゆらのは、何だかおかしくって、くすくす笑った。
本棚の森から顔を出すと、カウンター前で手を振る母の姿が見える。ゆらのは、そちらに向かってゆっくり歩き出した。
(苦手なひとの全てを、苦手だと思う必要はない、のね)
今日の発見を、ゆらのは心の隅の、小さな箱の中にしまい込んだ。
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