♪第17幕♪
ゆらのの父、隆文の職場は、二人の足で十五分ほど歩いた場所にある、図書館だ。
城をイメージしたのだろう、白と黒を基調とした建物。
二人は入口を抜け、そのまま階段を目指す。一階はスタジオや多目的ホールといった市民憩いの場となっている。
ゆらのは、二段飛ばしで、しかし静かに階段を駆け上がった。
自動ドアをくぐれば、慣れ親しんだ紙の香りが、ふわりと漂う。
入ってすぐの返却カウンターには、自分が何をしでかしたのかわかっているのだろう、苦笑いを浮かべる父の姿があった。
隆文は、同じ赤いエプロンを着た職員に、一言二言声をかけた。カウンターの外に出てくる。
時刻は丁度、開館直後の波が途切れた頃だった。児童図書のコーナーには、暇を持て余したらしい親子連れが、ちらほら見える。
三人は他の利用者の邪魔にならないよう、カウンター横のちょっとしたスペースへと移動した。
「いやぁ……すみません」
素直に頭を下げた隆文だが、妙乃は不服そうだ。夫に向かってひとつ大きく鼻息を漏らす。
そのまま、ポケットから小さなメモ帳と万年筆を取り出し、何事かを一言二言書く。
申し訳なさそうに見守る隆文。
それらの様子を見たゆらのは、母を止めることはできない、と早々に結論を出す。そもそも、止める気は全く起きていなかった。
妙乃は、にっこりとヘビがカエルをにらむような笑みを浮かべると、メモ帳を隆文に突きつけた。
父譲りの苦笑を、ゆらのはその顔に浮かべる。メモ帳に書いてある言葉すら、確認しない。
(あーあ、お母さんには全部オミトオシだって、お父さんも分かってるはずなのにね)
メモを風圧と共に受け止めた父の口端は、わずかに上がっていた。
今は紙束で隠れてしまっているが、その下には、幸せでたまらない、とでも言いたげな、優しい瞳があることだろう。
「妙乃さん、それじゃ読めな――うわわ」
至極もっともなことを、隆文は小声で冗談めかして言う。妙乃の目からは、最早ビームが出そうだ。隆文の、楽しげに焦る声。
ゆらのは想像する。
勿論、父は、折角の弁当を忘れてしまったことに対し、申し訳なさを感じているに違いない。無いと気がついた時には、相当焦ったことだろう。反省もしただろう。しかし今、妻と娘が職場まで弁当を持ってきてくれたことを、彼は喜んでいる。
(別に、お父さんも、あたし達を試しているわけじゃない。「やってしまったミスが、小さな幸せになって返ってきた」みたいな感じでしょ。でも、お母さんからしてみれば、「そもそも忘れるな! 折角おいしく作ったのに!」って話なわけで)
困ったように頭をかく父と、「まったくもう」と言わんばかりに眉間をおさえる母。
トイレに向かう途中らしい老婦人が、ほほえましそうな顔で通り過ぎる。図書館の隅で、ほぼ音なく交わされる会話は、それでもかなり目立っていた。
ゆらのは、二人から一歩二歩離れた。ナップサックを背中から降ろす。
母の妙乃は、生まれつき言葉を話せない。しかし、それが、家族の中で何らかの困りごとにつながる、ということはなかった。互いの言いたいことは、大抵手に取るように分かった。どうしても会話をしたい時は、今のようにメモ帳が活躍する。
(……そのメモ帳を間に挟むときだって、二人とも、お互いの気持ちをちゃんと分かった上で向かい合ってるんだから、ねえ。もうあたしは何も言いませんよーだ。えーっと。トラ……牛……なんだっけ、クマに蹴られる……?)
国語の教科書で見た慣用句を思い出そうとして、ゆらのは首をひねった。
が、どうしても、クマの初手ならギリギリ避けられるかな、なんて、別の方向に思考がズレる。しばらく眉を寄せて考えていたものの、正解には至らなかった。
「あー、ダメ、出てこないや」
ちら、と隣をうかがえば、父がようやく母のメモ帳を受け取ったところだった。
「次からは気をつけますね……おお、メインは生姜焼きですか。妙乃さんの生姜焼き、おいしいんですよね」
反省しているのだかしていないのだか、よく分からないことを呟く隆文。妙乃は、ジト目で夫をにらんでいる。
ゆらのは、「はい」とナップサックを隆文に差し出した。飲食禁止の図書館で、お弁当を堂々と渡すわけにはいかない。クローバー柄のファンシーなそれは、あとで職員からの注目を浴びるだろうが、叱られるよりはマシだろう。
隆文は笑顔で「ああ、ありがとうございます。後でちゃんと返しますね」と受け取った。
「あたし、ちょっと調べものしてくるね」
そう手を振って、ゆらのは、辞書コーナーへと向かった。
本棚の角を曲がる前に振り返ると、両親がまた、楽しげなにらめっこを始めていた。
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