♪第15幕♪

 ゆらのは、母に手を引かれ、帰り道を歩く。

 歩くたび、ナップサックに入れた空の容器が、背中でカタカタと鳴る。

 空はすっかり月と星に支配されていた。

 息を吐くと、それは白く濁って昇っていく。

 やや時間は遅れたものの、きちんといつも通りの夜が訪れたようで、ゆらのにはそれが誇らしかった。

「今日は、日記に書くことがたくさんあるの。とっても楽しい一日だったわ」

 そう報告すると、母からはにっこりとした笑みが返ってきた。

 角を曲がり、とはゑたちと出会った空き地の脇を通る。

 ゆらのが、ちらり、と横目で見るが、そこには普段と変わらない光景しかない。コンクリート塀と、今は影と化しているシイの木。

 数時間前、自分が〈上光かみみつ〉の未言巫女と戦っていたなんて、ゆらのには信じられなかった。

 同時に、さっき、とはゑたちの家で聞いた、『〈上光〉はとても穏やか性格』『実質無害』という言葉も思い出してしまう。

 かみみつ、と唇の上だけで言葉を転がしてみる。

 ゆらのは、その未言をよく知っている。

 確かに、普段の〈上光〉は非常に優しい存在だ。雲の上から透けて見える太陽や月の光は、いつだって、ゆらの達を見守ってくれている。その視線の温かさを、ゆらのは理解している。

 しかし、それとこれとは、話が別だった。

(「朝、太陽は昇り、夕方沈む」なんて、当たり前の……当たり前を壊しておいて、何が無害なのよ)

 とはゑ達には言えなかった不満が、ゆらのの中で、ふつふつと積もっていく。

 不意に、一瞬だけ、彼女の顔が曇る。

 しかし、ゆらのは、その脳裏によぎった考えを、軽く頭を振ることで追い出した。

 前方に意識を向ける。そこにあるのは、ゆらのの見知った風景ばかりだ。

(……いつも通りの帰り道、いつも通りの空き地。夜は暗くて、星とお月さまが雲の隙間から見えていて。平和、って、こういうことを言うのよ。あたしは、その町の平和を、守っているんだから)

 そんなことを思いながら、ゆらのは「ここだよ、お母さん」と話しかける。立ち止まりはしなかった。

「ここでね、さっきの子たちと出会ったの。あ、光斗さん――いつものお兄さんね――の家に行く途中で、一回すれ違ってはいたんだけれど」

 顔を上げると、そこにはゆらののおしゃべりを聞いてくれる、いつもの母のほほえみがある。

 触れているその手も、昨日と同じ温かさを保っている。ぶん、とゆらの自身の右腕を大きく揺らしてみせれば、二人の腕が高く上がった。目が合い、笑い合う。

 洗濯の途中で出てきたのか、母からはかすかに洗剤の香りがした。

 ゆらのの視線は、そのまま手首の小さな傷に向く。夕方、シイの木に登ったとき、枝に引っかかれてしまったものだ。

 既にかさぶたが出来ているが、あまり見せたいものでもない。たとえ、既に気づかれていたとしても、だ。腕を下ろし、袖で傷を隠す。

 未言巫女のことは、ゆらのの両親も知っている。むしろ、未言の存在を教えてくれたのが、この二人だった。母の妙乃たえのは未言の美しさを、父の隆文たかふみはその艶やかさと暴走時の危険性、そして対処法を、ゆらのに教えた。

 母も父も、そしてゆらの自身も、未言を愛するものであることには変わりない。

 でも、だからこそ、「未言が原因でケガをした」とは言えなかった。

 正義の味方に犠牲はつきものだが、その傷がバレてはいけない。

(そもそも、町の平和を守るヒーローやヒロインは、その存在が明らかになっちゃあ、いけないのよ)

 毎週末見ている変身モノのテレビ番組を思い出しながら、ゆらのは少しだけ手を握る力を強くした。握り返され、指がじんと痺れる。

 家に帰れば、母の無言の威圧が待っている。

 ゆらのの帰りが遅くなった日、ゆらのがケガをした日、ゆらのに何か悲しいことがあった日。そんな日の夜、決まって妙乃は、ゆらのを観察する。どんなに隠そうとしたって無駄だった。時間をかけ、その時折現れる鋭い眼光を以て、ゆらのを見る。

 今夜も、母は、娘にできた小さなかさぶたに触れ、頭を撫で、見澄ますことだろう。

 何も言わないままじっくりと、こちらの心を見透かすように、ゆらのの瞳を見つめることだろう。

 それでも、本当のことを、真正面から言う気にはなれなかった。

 だからゆらのは、ケガを隠したことを誤魔化すように、「あの子、とわえ……ううん違う、とはゑ、って言うんだよ」と口を開く。

「お姉さんの方は、にこえ……あれ、にこえ? にこゑ? そう言えばちゃんと聞いてなかった……とにかく、ニコエさん、って言ってたかな。料理がとっても上手なんだよ! あ、もちろんお母さんの料理もおいしいけどね。とはゑはね、沢山食べるの! もう、びっくりしちゃったんだから!」

 一度声を発せば、その後は石が転がるように言葉が飛び出す。

 妙乃がまっすぐにこちらを見て相槌を打ってくれることもあり、ゆらのは新しく出来た友達のことを、一生懸命に話した。

「多分、最近引っ越してきた子たちなんだと思う。ケガをし……えと、空き地で木に登って遊んでたら、ちょっと引っかいちゃったんだけど、そう、その時にね、家まで連れて行ってくれて、ニコエさん、に、消毒液をぬってもらった!」

 ところどころ誤魔化しつつも、ゆらのの口はよく回った。

 懐中電灯の光が、ゆらゆら揺れる。

 妙乃は、絶え間なく続く娘の話を、ほほえみと共に見守った。

 二人の慣れ足は、やがて、ゆらのの「ただいま!」という声に繋がる。

「おかえりなさい。帰りが遅いから、少し心配しました。妙乃さんまで、急に『ゆらのを迎えに行くね』と、外に出ていくのですから……いつものことですけどね」

 隆文は、鼻を赤くした女性二人を、苦笑と共に出迎える。

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