∞第12幕∞
大きなこたつの天板に並ぶのは、にこゑが手掛けた夕食の献立だった。
湯気を立ててふくよかに香ばしい匂いで鼻をくすぐるビーフシチューに。
焦げ目のついたジャガイモとチーズがカリカリに焼かれていて。
コーンと玉ねぎと一緒に醤油マヨネーズで和えられたツナが小鉢の中に。
藤かごにどっさりと山盛りにされたパンだけは、手作りではなく、千秋が近所のパン屋で買って来たものらしい。
少女は目の前に並んだごちそうに、ごくりとのどを鳴らした。
五人揃って膝をこたつに差し込んで、千秋と琴音が手を合わせるのを見て、子供たちがそれを真似る。
「そ、それじゃあ、いい、んっ、いただきま、す 」
「いただきます」
「ぃた、だき、ま、す 」
千秋は情けなく、とはゑはたどたどしく、声をつかえさせて、琴音だけがキレイな発音で食膳のあいさつをした。
「あ、と、いただきます」
それに少女が申し訳なさそうに戸惑いながら続く。
自分以外の言葉を聞いて、今日の料理をこしらえたにこゑは、軽くまぶたを降ろして、静かに口を開く。
「ええ。召し上がれ」
娘へ謝意が届いたのを見届けてから、大人二人はまず、ビーフシチューをそれぞれのスプーンで掬い、口に運んだ。
「ん、きょ、今日も、おお、美味しいよ、
「知っているわ」
父親の称賛を、にこゑはさも当然だと言うように言葉少なに受け流した。
その態度に、千秋は頼りない笑みを浮かべるしか出来ないが、そんな父親はさらりと無視して、にこゑはとはゑの前に置かれたスプーンを手に取り、彼女のシチューをすくった。
「はい、とはゑ。あーん」
「あぁん」
そしてとはゑは、素直に口を大きく開けて、大好きな姉からの
「えっ?」
しかし、ここには普段の食卓にはいない少女がいた。
目の前で姉にかいがいしく料理を口に運んでもらうとはゑを見て、少女は濁った声を上げ、呆然と眺めている。
そんな少女の戸惑いの目の前で、今度はとはゑがにこゑのスプーンを手に取り、なめらかに姉のシチュー皿からお肉をすくい、にこゑが小さく開いた唇の中へ器用に差し込んだ。
にこゑのふっくらとした唇が、一筋、銀のさじの形に歪む。
スプーンをにこゑの口から引き抜いたとはゑは、期待の眼差しを真っ直ぐに向けていた。
「ふふ、きちんと完璧な仕上がりね、とはゑ」
とはゑは、自分が作ったものでもないのに、それどころか食べた本人が作ったものであるのに、それはもう誇らしげに、嬉しそうに、顔を輝かせる。
「え? えっ?」
そして一連の行動を見て、少女はにこゑととはゑの姉妹の顔を交互に見比べて、意味がわからないと全身で表現していた。
「ああ、気にしないで。その二人の性癖だから」
「せいへき」
二人の母である琴音から解説が入ったけれど、そこに出て来た単語がどうにも不穏過ぎて、少女は頭に入ってくる前にオウム返ししてしまう。
「は、はは、その、まぁ、な、仲良しなんだよ」
「なかよし」
父親である千秋からもフォローが入るが、その簡単な言葉の意味が少女の脳内で迷走するくらいには、目の前で起こったことは衝撃的だった。
さらには、少女が戸惑いをあらわにしている間にも、姉妹の食べさせあいっこは、なにも気にせずに続けられたのだから。
「あ、このパン美味しいわね」
「う、うん。また、かか、買ってこようか」
そして少女にはおかしいとしか思えない光景にすっかり慣れてしまっている夫婦も、説明は済んだとばかりに食事を再開させている。
少女ばかりが、部外者として取り残されていた。
「ほら、食べなさいな」
とはゑにパンをちぎって与えていたにこゑが目ざとく、まだなににも手を付けていない少女に食事をうながした。
それに反応してではないが、少女のお腹が、主人に向かって空腹を主張するように鳴いた。
「ん」
少女は恥ずかしそうに顔を赤らめつつも、スプーンを手にして、恐る恐るビーフシチューを口にした。
そして、動きと思考を停止させてしまった。
少女は錆ついた歯車のように、ぎこちなく首を動かし、この料理を手がけたにこゑに目を向ける。
「め、めちゃくちゃおいしい ! あ、……えっと、とってもおいしい……です」
「だから、知っているわ」
あまりの美味しさに声をこわばらせる少女に、にこゑは聞き飽きたと言いたげに冷たく言い放った 。
にこゑの無表情の向こうでは、とはゑが自分がほめられたように首を壊れそうな勢いで何度も縦に振って、喜んでいる。
少女だって、お母さんの作る、そこらのプロには負けないくらいに美味しい手料理を毎日食べているのだけれど、今食べた料理はそれに負けないくらいに美味しかった。
にこゑが、天板の真ん中に大皿で置かれたポテトのチーズ焼きにフォークを刺し、チーズをくるくると絡めとって、とはゑの口まで運んだ。
ひな鳥のように口を開けていたとはゑは、カリカリとチーズを咀嚼する音を鳴らしては幸せそうに頬を押さえて落ちないようにしている。
少女はごくりと喉を鳴らして、自分もフォークを大皿に向けた。
ジャガイモは崩れることなくフォークを受けいれ、危なげなく口元までやってくる。
そしてジャガイモの瑞々しい甘味が、チーズの塩気に誘われて口の中で広がるものだがら、少女は目を丸くして、ぴたりと停止した。
「お、美味しいんですけど!」
「ええ、知っているわ」
感情のままに少女が叫ぶが、にこゑからの反応は何一つ変わらなかった。
「こら、和聲、もっと他に言うことはないの?」
琴音にたしなめられても、にこゑは肩を竦めるだけで、ツナを乗せたパンをとはゑに食べさせた。
もぐもぐ、ごくん、と姉がくれたパンを飲み込んだとはゑは、同じものを大好きなお姉ちゃんに上げようと体ごと腕を伸ばす。
「ごめんさないね、こんな娘で。ええと……あれ? そういえば、この子の名前は?」
娘の態度に謝罪を述べる琴音は、まだ少女の名前を聞いていないのを知って、にこゑに問いかけた。
「知らないわよ、まだ」
そして母親に対して、にこゑはすげなく事実を伝えた。
それに対して、琴音はしばし沈黙する。
「はぁ!?」
当然ながら、琴音の口からは絶叫が上がる。
千秋もまた、娘の無頓着さに苦笑いを浮かべた。
「あんたね、あんたね! 名前くらいきちんと訊きなさいよ!」
「……忘れてたわ」
一瞬、瞳を宙にさまよわせたにこゑは、そう言えばそんなものもあったわね、と言いそうな態度だった。
そんな姉のなだらかな肩越しに、とはゑはじっと少女を見つめる。
少女は真っ直ぐに見られるのが恥ずかしくて、そっと目をそらしてしまった。
けれど、とはゑはもぞもぞと動き、にこゑのお腹とこたつの隙間から、少女を見上げるように覗く。
それでもう、少女は観念するしかなかった。
「あ、あの、
少女――ゆらのは、そうやってやっと、とはゑに名前を知られることになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます