∞第11幕∞

 ほどなくして、家が見えて来たところで、とはゑは足を速めて少女を引きずる姉を追い越していく。

 とはゑはぶつかるように家のドアにしがみついて、開けてみせた。

「ありがとう、とはゑ」

 にこゑは、気の利く妹に甘やかな微笑みを向けて、玄関の段差に足を乗せた。

「ちょ、転ぶ、転ぶってば、自分で歩かせてよっ! 」

 少女が騒ぎ立てるのは無視して、にこゑは流れるように靴を脱いで家に上がった。その動きの流れのままで体を反転させて、少女の背中が柔らかな胸に寄りかかるようにして足を浮かせる。

 するりと、とはゑが少女の足元にひざまずいて、恭しく靴を脱がせる。その動きによどみはなく、慣れている動作なのだとうかがえる。

 だから少女は疑問の余地も与えられずに、小川家へと足を着けた。

「あら、和聲にこゑ? 永久会とはゑ? 帰って来たの? あら?」

 居間から肩までだけをひょっこりと出して玄関を覗いた琴音が、娘たちと一緒にいる少女に疑問の視線を向けた。

「只今帰ったわ」

 にこゑに連なるように、とはゑもこくこくと帰宅を母親に伝える。

 とはゑはそのまま、ぱたぱたと廊下を駆けだして、居間の中へと入っていった。

 そんな下の娘の小動物っぽい動きを目線で追った後に、琴音は上の娘が腕をつかんでいる少女に視線を戻した。

「どうしたの、その子の怪我?」

 そして少女の負傷に気付き、痛そうにいさめるように、その愁眉を寄せた。

「木に登って落ちたのよ。それをとはゑが見つけたから、拾って来たわ」

 にこゑは淡々と説明して、少女に振り返る。

「嘘は言っていないでしょう?」

 そして不遜な笑みを向けた。

 少女は不満そうにしながらも、余りに堂々とした態度に小さくうなずいてしまった。

「拾って来たって、あんたねぇ……いや、連れて来たのは勿論構わないんだけど、犬猫みたいに言うのはどうなのよ」

 母の苦言を、にこゑは肩をすくめるだけでいなす。そして引き続き、少女の腕をつかんだまま、琴音の横を通り過ぎて居間に足を踏み入れた。

 琴音は、慣れた様子で嘆息するだけで娘を見送り、その後ろに引っ張られる少女へと声をかけた。

「大丈夫? 安心して、和聲は手当てするの上手だからね」

 居間では、とはゑが救急箱を抱えて、準備万端とでも言いそうな顔でほめられるのを待っていた。

 もちろん、妹が可愛くて仕方がない姉は、空いている方の右手で、とはゑの髪をなでてさらりと音を鳴らしてくれるのだ。

「ありがとう、とはゑ。とっても偉い子ね」

 その一言だけで、とはゑは、ふふふー、と頬を緩ませるのだ。

 その様子を、少女がうらやましそうに見ていて、それで気が削がれていたせいで、にこゑが急に腕を引っ張るのにバランスを崩して、畳に尻もちをついてしまった。

「わっ!」

 うらめしそうに少女はにこゑを見上げるが、にこゑはなにも気にせず、とはゑが開いた救急箱の中に手を差し込んでいた。

「めくるわよ」

 にこゑは少女の返事も待たず、服の袖をめくった。

 左の二の腕に赤い擦過傷が広がるのは、落下時に転がったからだろうか。

「いっ!」

 前触れもなく噴きかけられた消毒液で、少女は悲鳴をあげて顔をしかめた。

 それに対して、整った顔のどの部分も動かさずに、淡々と速やかに薬を塗り、ガーゼを当ててテープで固定するにこゑは、畏れを抱きたくなるほどに美しかった。

 ただとはゑだけが、涙をこらえる少女に心配そうな瞳を向けて、懸命に救急箱を握りしめている。

「次、足ね」

 やはりにこゑは少女に心の準備をさせず、スカートをめくった。

 少女の顔が赤くなって、とはゑに向けて言い訳か助けを求めているかするように、口をぱくぱくと動かすが、ショックが大きすぎて声になっていなかった。

 それで、とはゑがそれはもう真剣に心配の色を浮かべて、少女の血の固まった太ももをまじまじと見るのだから、その恥ずかしさで頭から湯気でも出そうな様子だ。

「あ、ああれ? お客さん、かっ――い!?」

「ちょっと千秋君、今駄目だから、待ってくれる。あのね――」

 やっと娘たちの帰宅に気付いたらしい父親が、居間に入ろうとするのを琴音が留めるのが、向こうで聞こえた。

 その間に、にこゑは少女の手当てを終えて、救急箱を閉じる。

 すると、とはゑは決意を浮かべた顔をして立ち上がり、救急箱を元の場所へ戻す。

「……えと、ありがとう ……ございます」

 少女は不貞腐れながら、にこゑに乱された衣服を整えつつ、感謝を口にした。

 それに対して、にこゑは冷たくも見える感情の見えない瞳を返して、一拍、睨んでいるのかと思える ような視線で見つめて。

「どういたしまして」

 普通の息と変わらないような未声みこゑを返した。

「まぁ、あの人の娘なら、帰るまでに治っているでしょうね。夕食、食べていきなさい」

 それから、もう少しはっきりと聞き取れる声で、決定事項のようにこの後のことを告げた。

 その物言いに、やっぱり少女は目を丸くする。

「え、お母さんを知っているの ……ですか?」

 驚きを漏らす少女に向けて、にこゑはうっすらと笑みを浮かべて立ち上がり、見下ろした。

「いいえ、まだ会ってはいないわ。まぁ、もうすぐでしょうけど」

 そんな意味の分からないことを言い放って、そしてその後に少女が問いかけようとした言葉を置き去りにするようにして、にこゑは玄関から入った方とは逆の戸から、居間を出て行った。

「とはゑ、夕餉を運ぶから、手伝ってほしいわ」

 声もないのに、はーい、と聞こえてきそうな喜びを振りまいて、とはゑが姉の方へ駆けて行った。

「ちょっと、和聲? 晩御飯を食べていくのはいいけれど、この子のご両親に連絡しないといけないじゃない」

「平気よ。あちらはもう分かっているから」

「え? もう連絡してあるのかしら……いつの間に。相変わらず、不思議な子ね」

 少女は、一つ壁を隔てた向こうで話されるくぐもった会話を聞きながら、呆然と食事の用意をする家族の気配を眺めるしかなかった。

「そこ、不思議ですませていいの?」

 つい十数分前までに自分がやっていたことをすっかり忘れて戸惑う少女なんて誰も構わず、小川家の食卓は着々と準備が整っていくのであった。

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