∞第10幕∞
とはゑは、ふしぎなものを見た。
空を覆いつくした雲の向こうの美しい光。
大樹が見守った暖かな家庭。
万年筆から溢れた鮮やかな彩血の色。
そして、とってもカッコよく 動き回っていた目の前で倒れている女の子。
そこまで考えて、とはゑは、こてん、と首を倒した。
どうして、この子は、なんにもしてない光そのものの女性を蹴ったりしたんだろう。それに万年筆から霧を噴き出して、あの人を消してしまった。
はっ、と、とはゑは目を見開き、頬に両手を当てて青ざめる。
「さ、さつじ、じけん……!?」
「いいえ、あれは人でないのよ、
常識的と言えば常識的な、けれども、普通その結論には至らないだろうという考えにたどり着いたとはゑの思考を、服の中からの声が遮った。
とはゑの着るもこもこした上着の襟から、もぞもぞと全身を柔らかな新芽で包んだ麒麟が出て来た。
「ひぅうっ」
その体が自分の肌に擦れるのがくすぐったくて、とはゑは可愛らしい鳴き声を上げながら身をよじった。自然と漏れた笑いが、その顔をわずかに解く。
「あれが未言巫女なの。わかる?」
首の後ろから体を伸ばして顔を覗いてくる芽言に、とはゑは眼鏡の硝子越しにまん丸にした目を返すばかりで。
これ分かってないのね、と即座に理解した芽言から溜め息が漏れた。
そんな一人と一言の前を、するりと翼の生えた霧が通り過ぎた。
それは鳥の姿にまとまっていき、地面に倒れたままの少女に降り立つ。
「んんっ――」
霧に重さはないし、それが降り立ったところでなんの力もかかってないだろうけど、少女はそのタイミングで息を吹き返したようにまぶたを開けた。
ぱちぱちと、もう光がかけらも残っていない雲に蓋された夜空を溜まり目で眺めた後に、少女はがばりと上半身を起こした。
「わ! えっ、ここ、どこ? ……だれ?」
せわしなく首を巡らして言葉と一緒に白い息を吐き出して、状況を確かめていた少女は、ぴたりと、とはゑを見つめて動きを止めた。
そしてとはゑが瞬きをするよりも早く。
「いや、あ、昼間にあった子! なんでここに?」
喋るつもりがなかったとはゑが反応を示すよりも早く、話しかけようと少女に顔を向けた芽言が声を発するよりも早く、自己完結で少女は答えへ駆け込んだ。
思考を遮られた一人と一言の沈黙を表すように、少女の動きで弾かれて空へ逃げていた鳥の姿を真似た霧が、さらりと降りて来て、軽やかに周回する。
「ねぇ、无言。貴女、自分の主の暴走を止めてもいいんじゃないの?」
芽言が、漂うのではなく飛び遊ぶ霧に視線で追いすがって非難を向けるけれども、无言と呼ばれた霧の方は素知らぬ態度で法則のない軌道で飛び回るばかりだった。
その間に、やっと思考を再起動したとはゑは、少女の頬に手を当てて、自分に顔を向けさせた。
「え、なに、なになに?」
声もかけられずに顔に触られた少女は戸惑うばかりだが、とはゑは眼鏡の奥で不安に濡れて黒く沈む瞳で少女を見つめるばかりだ。
少女が心配で、なにか変なところはないかと看ているつもりらしい。
「えと、え? どし――ったぁ!? 痛い! なにこれ、なんであたしこんなケガしてんの、やばいお母さんにまた威圧されながら問い詰められる !」
とはゑになんとなく手を伸ばそうとした拍子に、怪我がつって女が叫ぶのに、とはゑは目を見開いて、おろおろと顔を周りに巡らせた。
けれど、いつも頼りになるとはゑの姉はここに――。
「未言巫女を退けたのでしょう。全く、あんな大立ち回りする必要はなかったでしょうに。〈上光〉はとても穏やか性格なのを知らないのかしら?」
来た。
この雲に抱かれて月勝ちな夜の中、目の前に来た无言の霧を無造作に手で払って崩し、悠然と歩く姿は髪の先も揺れないほどに隙がない。
まだ地面にひざまずいている少女が睨むように見てくるのを、冷え切った切れ長の目で睨み返して言葉にもさせず、とはゑを庇護する姉はやって来た。
にこゑはとはゑの隣に来ると、優しい手付きで少しずれた眼鏡を直して、髪を整えた。
妹の身だしなみを整えたにこゑは、少女に向き直り、見下ろすように立つ。
少女はその威圧感にたじろぎ、体を強張らせて。
そのせいで、にこゑが怪我していない方の右腕を掴んで立ち上がらせるのに、抵抗が出来なかった。
「は? え?」
少女は乱暴にも見える態度で掴まれたのと、それなのに痛みを全く感じないのと、両方に驚くのも追い付かず思考が止まって、目を白黒させるばかりだ。
「とはゑ、これ、家で手当てするから連れて帰るわよ」
姉の優しい言葉に、とはゑは顔を輝かせて、こくこくと頷いた。
「ちょ、これってなによ! 引っ張らないで、ねぇ !」
「悪いけど、わたくしはとはゑの意見が最優先よ。あと、怪我人の意見はさらに下方修正入るから、騒いで無駄な体力使わない方がいいわよ」
にこゑは折角の忠告も聞き入れずに騒ぐ少女に、気を悪くした様子もなく、腕を引きずって帰路を優美に歩く。
その後を、とはゑがちらちらと少女へ心配の眼差しを向けながら着いていき、无言は形を取り戻して空へ舞い上がり姿を消した。
「なんなんですの、このまともなのが一つもいないのは……」
芽言の悲しげな呟きは、上光の去った、いつもと変わらない夜の中に吸い込まれるばかりだった。
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