♪第9幕♪
〈
(……っ、結界か!)
そのまま、足に力を込める。結界に、小さなヒビが入った。
瀬戸物に刺激を加えた時のような感触。ゆらのは、一瞬、顔をしかめた。
(ああっ、もうっ、人間ならこれでやられてくれるのに! これだから未言巫女は!)
〈上光〉は、依然として微笑みを崩さない。
重力に従い、二人は落ちていく。
「――っ、ごめん、〈
ゆらのが叫ぶと同時に、二つの影は、突如伸ばされたシイの枝の群れの中に突っ込む。枝のきしむ音、短い悲鳴。それらは着地の衝撃を和らげた。さらに〈上光〉の身体をクッションにしたゆらのは、地面に足をつけると同時に前転、膝を曲げ、屈んだ状態で止まる。
細かい枝の先と葉を髪にくっつけ、ゆらのは、すぐさま〈上光〉のほうへ向き直る。右手には、しっかりと握られた万年筆。
〈上光〉が、ゆらりと立ちあがる。
その未言巫女は、悠然と微笑む。服のほつれもなく、神々しく、ただそこに、在る。
さらに、赤い屋根の家の幻影が消える。シイの木が元の大きさに戻る。ひび割れていた地面も、ゆがんだコンクリートの塀も、文字通り幻のごとく、何事もなかったかのように、元の風景へと変わっていた。〈統木〉の効果が切れたことは、明白だった。
ゆらのは、唇を噛んだ。
やるしか、なかった。
ゆらのの腕が、すっと前に上がる。万年筆の先は、真っすぐに〈上光〉を指した。
息は切れ、肩が上下する。心臓が大きく音を立てる。それらを、ゆらのは、深呼吸一つで静かにさせた。
低く、落ち着いた、祈るような声が、敷地内に響く。
〈未だ言にあらざる殊を〉
无言が不意に翼を広げ、飛び立った。
再び万年筆からインクが弾け飛び出す。今度は透明色、霧のようなものに変わる。そして、かの霧状の鳥を巻き込んで、コンバータへと吸い込まれていく。
〈未だ言と語られぬ物を〉
一瞬、ゆらのの身体がふらついたが、気合で持ち直した。足を肩幅に開き、カッと〈上光〉を睨みつける。
〈この彩血に宿して表し現す〉
〈上光〉は、ただ静かに、ゆらのを正視している。
彩血が、万年筆を満たした。
ゆらのは、言葉を紡ぐ。
〈――
言葉とともに、万年筆の先から霧が吹きだした。
目に見えぬそれは、膨らみ、捏ねるようにして形作られ、一羽の巨大な鳥となる。
羽を広げ、空に飛び立てば、世界を一つ丸のみにできてしまいそうなほどの威圧。くちばしが開き、無音の鳴き声が響き渡る。
ゆらのは、ふっと微笑んで、「お願い」と呟いた。
それを聞いたのか否か、霧状の鳥は、〈上光〉の未言巫女に突進、そのまま、一口でそれを呑み込んだ。
〈上光〉は、情動なき微笑みのまま、掻き消えた。
あっけない終わりだった。
「……あ」
それを見ていた、もう一人の少女――とはゑは、声を漏らした。
歓声にはやや小さいそれは、ようやくゆらのの元に届く。
「え?」
予想していなかった声に、ゆらのが振り向く。敷地から一歩離れた場所、コンクリートの塀の近くに、少女が立っている。
見覚えはあった。昼間すれ違った、无言を見ていた少女だ。
(どうして、ここ、に)
だが、ゆらのは、それから先を考えることができなかった。
ばた、と、軽い音を立てて、ゆらのの身体が崩れ落ちる。
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