♪第8幕♪

 ゆらのの口端が、ぐい、と上がった。

「やっぱりあなたね、〈上光かみみつ〉!」

 ゆらのは、ばねのように飛び出した。

 上空に突如出現したそれに背を向け、走る。

 隣にいた少女が、びくっと肩を震わせ後ろに下がるが、ゆらのはそれにも気が付いていなかった。

 まるで逃げるかのような素振りだが、そうではない。

 相手は地上三メートルほどの位置を浮遊している。ゆらのの背では、届きそうもない。

 故に目指すは、敷地を囲むコンクリートの塀。

 そして、大きくそびえ立つ一本のシイの木。

 ゆらのは、高らかに謳い始めた。

〈未だ言にあらざるを〉

 万年筆の桜模様が、渦巻き始める。

 ゆらのは、自分のお腹の底から、何かが這い上ってくるのを感じた。

〈今此処に綴るに相応しき色を誓い願う祈りのままに〉

 ゆらのの脚は止まることなく、コンクリートの壁へと向かっている。スカートが風に煽られ、はためいている。

 その漆黒の瞳孔に、チリチリと濃い桜色が舞う。父から 、母から受け継いだ膨大な魔力。

 熱く、どろりとしたマグマのようなそれは、脊髄を通り、血管を駆け巡り――

〈この一筆に湧き出だせ〉

 今、一つの咆哮として、世界に生まれ出る。

未言充添インフィル!〉

 待ってました、と言わんばかりに、万年筆からインクが噴き出した。

 桜吹雪のように飛び散った彩血たちは、うねり、飛び跳ね、『桜華』を中心にして軽やかに舞う。一瞬の生を、心から喜んでいるようにも見えた。

 ゆらのは右足で踏み切って大きく跳躍、左手がコンクリートの端をつかんだ。そのままの勢いで塀の上まで登り切ると、身体を捻じって角度を変える。瞳に映るのは、葉を落とし丈夫な幹をさらすシイの木。

 ゆらのは、今度は呟くような声で、低く、それを唱える。

〈未だ言にあらざることを〉

 すると、彼女の周囲で舞っていた彩血たちが、蛇のとぐろのように渦巻き始めた。十分に熟した木の葉のような色に変化し、再び万年筆の中へと滑り込んでいく。

〈未だ言と語られぬ物を〉

 ゆらのは、身体のばねを使って木の幹のほうに向かって跳ぶ。万年筆のインクは、すっかり元のコンバータの中へ戻っていた。

 さながら忍者のような動きに、「ほあわぁっ……!」 と小さな歓声が上がるが、やはりゆらのの耳には届いていない。

〈この彩血に宿して表し現す〉

 切断された幹の一番上で、彼女が見据えているのは、ただ一点――上空に現れた神々しい異端、ゆらのの動きを、ただ微笑みを以て見つめる存在、〈上光〉だけだ。

 ゆらのは、年輪をさらしているその断面を少しだけ悲しそうに撫でる 。

 そして、万年筆をアンプルのようにそこへ突き刺し、叫んだ 。

統木すばるき!〉

 その成長は、一瞬だった。ゆらのを乗せたシイの木は、時間を早送りにするがごとく、根を地に巡らせる。枝を茂らせ、葉を増やし、背を伸ばしていく。コンクリート塀が傾き、地が割れる。「わあっ」というかすかな声は、ゆらのには聞こえなかった。

 統木がゆるやかにその成長を終えたとき、それは大樹へと変貌していた。

 その高さ、およそ六メートル。

 同時に、ある幻影が、ほぼ観衆もいないままに現れる。

 赤い屋根の家と、三人の家族。女性が一人と、男性が一人。生まれて間もない赤ん坊が一人、女性に抱えられている。


 統木すばるき

 曰く、庭や山など、一定の空間を象徴する木。

 その木は、己の領地にあるものを統べて想起させ、その領地の総てはそれと共に人の記憶に宿る。


 ゆらのは、その小景を、見なかった。

 ゆらのが、幹を蹴り、そのてっぺんから大きく跳ぶ。

 一瞬の浮遊ののち、始まる急降下。

 ゆらのは、自分に向かって近づいてくる巫女姿のそれを、真っすぐに見下ろしていた。

 両手を左右に広げ、両足を揃える。重力を味方に、全体重を乗せた強烈なドロップキックを叩き込んだ。

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