∞第6幕∞

「はい、わたくしが芽言めことですの」

 とはゑの思考が、また凍り付いた。力なくもれた息が、真っ白に凍って、すぐにとろけて空気に混じって消え去った。

 確かに聞こえた。瑞々しくて、新緑が木擦れるような、軽やか声だった。

 ばっ、ばっ、と、とはゑが左右に首を振る。

 誰もいない。誰もいないのに。

「違いますの、あなたの手元ですのよ」

 確かに、その声は、とはゑに聞こえた。

 とはゑは声に素直に従って、手元に視線を下ろす。

 しゅるりと、栞の紐が勝手に解けた。

 背筋を伸ばすようにその紐は真っ直ぐになり、それから四肢を解すようによじれて、それから。

 とはゑの見ている前で、ぐにゃりと体積を変えてふくらみ、首を、前足を、後ろ足を、しっぽを、背中を、そして角を伸ばした。

「ほあわぁっ……!?」

 とはゑの喉から、意味を成さない声が漏れて、白くにごって少しだけ漂った。とはゑの眼鏡が曇って、靄目もやめに隠れた一瞬で、それは体の変態を終えていた。

 とはゑは、その体の形に見覚えがあった。お母さんが毎晩飲んでいるビールの缶に描かれている生き物とそっくりだった。確か、麒麟っていうとてもえらい動物だ。

 とはゑの目の前のそれは手のひらで包んでしまえそうな小ささで、全身が萌黄色の芽が鱗みたいに敷き詰められていて、額の一本角も冬芽のように柔らかな袋で包まれている。

「わたくしが芽言ですのよ」

 芽言、と名乗るその不思議な何かは、ぐりぐりと首を左右によじってから、とはゑの目を覗き込むように伸ばしてきた。

「どうぞよろしくなの。新しく未言を綴り納めるあなた」

 とはゑは、この存在の行動も言葉も実体も、何一つ理解できなくて、ただぱちぱちと目を瞬かせるしかできなかった。

 芽言はしばらく、血行を巡らせるようにぐりぐりと体をよじっていたのだけれど、どうにも、とはゑに何の自覚がないらしいというのに気づいて、質問を投げかけた。

「ねぇ、未言は知っているの?」

 ふるふると、とはゑが首を横に振った。

「芽言、という未言は知っているのね?」

 こくこくと、とはゑは頷いた。

「それで、未言が何か知らないの?」

 こくこくと、とはゑは頷いた。

「わたくしのこと、なにか分かっているの?」

 ふるふると、とはゑが首を横に振った。

「あなた、喋れないの?」

 ふるふると、とはゑが首を横に振った。

「がん、ばれば」

「……そう、がんばったら、話せるのね」

 芽言と名乗った新芽をまとった麒麟は、がっくりと首を落とした。

「……見せた方が早そうなの」

 ぽつりと、芽言がそう呟いて、とはゑの手元からふわりと宙を歩いて、窓に向かった。

 その様子を、不思議そうにとはゑが見つめている。

「ねぇ、不思議だと思わないの?」

 こて、ととはゑが首を傾けた。

 芽言は、前足の蹄で器用に窓の鍵を開けて、がらりと外の景色を遮っていた窓硝子を押し避けて、とはゑに見せる。

「どうして日が落ちているのに、こんなにも空は明るいのかしら?」

 芽言の言う通り、空を覆う雲は白く照っていて、その煌めきで宵は闇を退けられていた。太陽はもうとっくの昔に山の向こうに沈んでいて、雲の端だけをの緋で焼いている。

 とはゑは、その見たこともない綺麗な景色を愛鏡まなかがみに映して、心のときめきで輝かせていた。そして心の衝動のままに、外へと飛び出していった。

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