∞第5幕∞

 姉との散歩から帰ってきたとはゑは、窓から差し込める夕日の茜に、図書室の地下で見つけた栞をさらして眺めていた。

 元から淡い鴇色だった本革の栞は、夕焼けの緋に焙られてより一層美しく見えた。

 その栞の、緑が茜の光を重ねて黄色に成り変わった紐を、ちょんと摘ままれた 。

 その指を伸ばした手を、とはゑの視線がたどって、肩からすぐにいたずらっぽく笑うにこゑの顔にまで行きついた。

 とはゑがこてん、と首を傾げて見せると、姉はくすくす笑うばかりで、なんのつもりなのか教えてくれない。

 それから、にこゑはとはゑの頭を撫でて、指でさらりと髪をすいてから部屋から出て行った。

「さて、今日の夕餉は、じっくりとシチューでも煮込みましょうか。寒いからね」

 そんなお夕飯の献立のつぶやきだけを残して、扉がぱたんと閉められてしまって、とはゑは傾けた首を反対の同じ角度まで持ってきた。

 いつもながら不思議なことをする姉なのである。さすが、常日頃から魔女と自称するだけのことはある。

 そんなお姉ちゃんが、とはゑには格好良く見えて、いつだって憧れている。

 それに、とはゑは、にこゑがじっくり煮込んだシチューは、クリームだってビーフだって、おいしくておいしくて、大好きだった。それはもう聞いただけで、ごくんとつばを飲み込んで、待ち遠しくなってしまうくらいに。

 ああ、でも。これから作り始めるなら、ご飯はずっとずっと遅くになってしまうがわかってしまって、とはゑはそわそわと体を揺すった。

 そんなことをしても、時間は少しも早く進まないけれど、楽しみで仕方ないのだ。

 とくん。

 揺れていたとはゑは、何かが跳ねたような気配を感じて、動きを止めた。

 そのまま、肌を研ぎ澄ませて、辺りの気配を探る。

 じっと、ずっと、待ってみて。

 やっぱり何の気配も感じない、ような、気がする。

 とはゑはゆっくりと首を右へ巡らせて後ろまで振り返る。なんにもいない。

 それから左へひねっていって、こちらからも後ろまで振り返る。なんにもいない。

 気のせいかな、と細く吐いた息が白くもやになって、すぐ消えた。

 とくん。

 指先から確かに鼓動を感じて、とはゑはびくりと肩を跳ねさせた。

 どくどくと自分の心音がうるさくあわてている。

 思考がびっくりして、体を動かそうとかいう気が起こらないまま、目だけが見開いてまりに部屋の壁が映る。

 とくん。

 とはゑは、自分のこの動悸が指から体を跳ね返しているのかと思った。

 けれど、すぐにそうじゃないと判断した。順序が逆だった。

 指から何かの鼓動が伝わってきて、それが理解できなくて自分の心臓は怯えであわてているのだと、とはゑは間違えずに理解していた。

 常識を信じれば、そんなものは勘違いで、脳が勝手に順序を入れ替えたんだと誰もが言うだろう。

 とはゑは、ゆっくりと、深く、たくさんの息を吸った。

 とくん。

「自分自身を信じれば進む道が見えてくる」

 一音一音はっきりと、偉大なる文豪ゲーテの言葉を、自分の声でたどって、自分自身の命を浸した。

 とはゑは、そこで、自分の指が今でもしっかりと摘まんでいるものを思い出した。

 視線を下げていき、栞を見た。

 夕日は沈んで、残った光だけが雲を巡って反射して繰り返し、白んだ黄色でとはゑの手元に差していた。

 とくん。

 力を強めた指先に、鼓動が確かに響いた。

 とはゑは栞をこすってさぐる。少し温かい気がした。それから、命の気配も感じるような、気がする。

「たいせつなのは、忍耐力と、なにより自信を持つこと」

 とはゑは、大科学者にして女性科学者の先陣たるキュリー夫人の言葉を自分の心に芽来めくって、現実に起きた信じられないことを否定しようとする自分を抑え込んだ。

 とくん、とくん。

「けっして枯れることのない、好奇心にも似た冒険心」

 キュリー夫人が、人生に必要なことだと語ったという言葉を辿る。

 心の奥にしまった言葉を声にして繰り返し、芽を出すように自分に根付かせる。

 お父さんが教えてくれた。たくさんの言葉を読むといいと。覚えていられなくても、それは必要な時に、永久会の生き方になってくれるからと。

 お母さんが教えてくれていた。そういう、必要な時に思い出されて力になってくれる言葉を――。

芽言めこと

 そう、未言では言うのだと。

 とくんっ。

「はい、わたくしが芽言ですの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る