♪第4幕♪

 光斗こうとは、ゆらのより四つ上の、中学二年生。

 同じ町に住む彼は、ゆらのにとって「憧れのお兄さん」だ。良く近所の子どもたちに混じって遊んでもらっていたし、母に言われて光斗の家までお菓子を届けに行ったこともある。

 光斗はイギリス人と日本人のハーフで、どちらの言語も器用に話すことができる。おまけに数学も得意だと言うので、ゆらのは今日、勉強会を開いてもらう約束をしていたのだ。

 でも、ゆらのにとって、そんなものは単なる口実に過ぎなかった。

「自分から勉強しようだなんて、ゆらのちゃんは真面目だね。僕はテスト一週間前くらいから一気に詰め込む派でさ。機会がないと、ちゃんとした復習ってしないんだよね。だから、僕としてもありがたいよ」

 道中、きらきらと笑う光斗に、ゆらのは「そっ、そんなことないです」と言葉を詰まらせる。青空の下で二人きり、という状況が、彼女を舞い上がらせていた。

「あたし、あんまり頭良くなくって、特に英語とか、全然わからないんです。お母さん、じゃない、母、は『あんなの簡単』って笑うんですけど」

「確かに、日本語と英語って、言葉を並べる順番がまず違うからなあ。僕は親のおかげでうまくやっていけているけれど、はじめはやっぱり難しいと思うよ」

「そうなんですか?」

 ゆらのの歩幅に合わせて、二人はゆっくりと歩いた。

 光斗が話すことは、ゆらのにとって目新しいことばかりだ。光斗が小学生だった頃の話、彼の父親がイギリスから日本に来た時の失敗談、彼の中学校での生活。話題はあちらこちらに飛んだが、ゆらのはそのどれもに目を輝かせた。

「僕にはね、名前が二つあるんだ」

「二つ、ですか?」

「うん。伊藤、って苗字は、母さんのものなんだよ。父さんは、僕が学校で困らないように、日本語の名前と英語の名前の二つをくれたんだ。いいだろ?」

 光斗の言葉に、ゆらのはやや曖昧に頷いた。自分の名前が二つある、という感覚がどういったものなのか、分からなかったのだ。

 試しに、「三栗響乃」と呟いてみる。

 それはゆらのにとって、たったひとつの、大切な自分の名前だ。その「大切」がもうひとつあるなんて、ゆらのの頭では、想像もつかない。

 名前がふたつある人にしか、分からないことなのかもしれない、なんて、少し大人びたことを考えてみる。

 それでも光斗が、どちらの名前も大切にしていることは、彼の表情から分かった。

 ゆらのは、またひとつ光斗のことを知れたような気がして、頬を緩ませた。

「光斗さんって、すごいですね」

「……? そう?」

「すごいです」

 ゆらのが一人で納得したように深く頷いたところで、二人は光斗の家の前につく。

「……あ!」

 ゆらのは、思い出したようにナップサックを背中から下ろした。中から、やや小ぶりのタッパーを取り出す。

(タイミングを間違えちゃった、会った時に思い出したかった! いやでも、道の途中でいきなり渡しても困るだろうし、あぁでも……!)

 そんなことを考えながら、ゆらのは中身の形が崩れていないか確認する。大丈夫そうだ、ということが分かって、一息つく。

 多少どもりつつも、どうにか「これ、母からです」と言って、光斗に手渡した。中身はクッキーだ。

 光斗は「ワオ! 僕も、それから母さんも、おばさんのクッキー大好きなんだ!」とさらに表情を明るくした。

 華やかな笑顔に、ゆらのは心の中で母にGJを送る。



 ゆらのが、光斗の玄関扉を再びくぐったのは、それから三時間ほど過ぎてからのことだった。

「ありがとうございました、楽しかったです!」

 ゆらのはそう言ってから、ぺこりと頭を下げる。

(ああ、もう、自分にもう少し頭の良さそうな台詞が言えれば! 何よ『楽しかったです』って!)とも思ったが、それ以上の言葉は出なかった。そのまま、玄関のドアノブを、ガチャリと捻る。

 光斗はゆるく微笑んで、「こちらこそありがとう」とスニーカーを履く。

「送っていくよ。夜も近いし、女の子ひとりじゃ危ないでしょ」

 ゆらのが目を輝かせ、光斗の方を振り向こうとした、その時だった。

「あれ?」

 光斗が首を傾げた。

「どうしました?」

 そう言ってから、ゆらのも気がついた。

 ――明る過ぎるのだ。

 ゆらのは、小さな頃図鑑で読んだ「日の入り」の項目を思い出す。

 今は夕方。あと十分もすれば、この辺りはすっかり夜に染まるだろう、そんな時間帯だ。

 でも今、雲の切れ目からは光が降り注いでいる。 上を見上げても、太陽自体は雲に遮られ見えなかった。しかし、頭上に広がる白の上には、青空が広がっているに違いなかった。

「白夜みたいだ……」

 光斗が呟く。その声は、まるで、なにかに魅入られているかのようだった。

 「ビャクヤ?」と疑問符を頭に浮かべたゆらのに、光斗は「夜になっても太陽が沈まないことだよ」と説明する。

「凄く北の方……グリーンランドやアイスランドでは見ることが出来るんだって。日本ではまず起きないから、多分なにかの異常気象だと思うけれど……怖いなあ」

 「異常」という言葉に、ゆらのは、ぴくり、と肩を震わせた。

(……いやな、感じがする)

 ポケットに手が伸びる。中に入っているそれを、軽く握りしめた。

 ゆらのは、一歩外に出る。確かに、昨日の同じ時間とは、随分と様子が違っているように思えた。しばらく黙り込んでから、顔を上げる。

「光斗さん、あたし、母にお使いを頼まれていたのを思い出しました」

 呆然としていた光斗が、我に返ったようにゆらのの方を見る。

「……ああ、そうなの? ついて行こうか」

「いえ、大丈夫です! それに、光斗さん、顔色が少しよくないです。早く家の中に入って、ゆっくり休んでください。では!」

 ゆらのはそう言うと、扉を勢いよく閉めた。大きな音がして、光斗の顔が見えなくなる。

 「あっ……」とゆらのの口から小さな声が出るが、もう後には引けなかった。

(うわああ、何やってんのあたし! 何も勢いよく閉めることはなかったじゃない! 光斗さんに嫌な子だと思われたらどうしよう、もう!)

 心内では収まりがつかず、ゆらのは「无言むこと!」と叫んだ。

 光斗の家の屋根で羽を休めていた霧状の鳥は、音も立てず、ゆらのの頭上に舞い戻る。

「今すぐ――今すぐ、アレをどうにかするよ!」

 「アレ」のところで、真っ直ぐに頭上を指さしたゆらのは、まだ明るい光を放つ太陽を睨みつけた。

「待ってなさい、未言巫女 !」

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