♪第3幕♪
少女――ゆらのは、思わず振り向いた。
ゆらのの黒く長い横髪と、膝丈のスカートが翻る。
唇を軽く噛み、今すれ違った女子二人組を見つめる。右手でポケットに触れ、中に入っているものを確かめた。
「ほら、……ゑ、……から前を向いて……」
ゆらのとすれ違ったのは、同年代くらいの少女。氷銀の瞳を、緋色の眼鏡で覆い隠している。
少女の膝まである、長いストレートの黒髪がひらめき、ゆらのの視線を誘った。
見かけない顔だ、と、ゆらのは眉をひそめる。
それから、その隣を歩く女子。
こちらも初めて見る顔だった。ゆらのや少女とあまり変わらない年頃のようにも見えるし、ずっと年上のようにも見える。線は細いのに、存在感がある。
ぱっと見ではよくわからない人、というのが、ゆらのが抱いた印象だった。
「……姉妹かな」
小さく呟いてみるも、向こうがゆらのを気に掛けることは無いようだ。
二つの背中が、ゆらのから遠ざかっていく。
曲がり角で姿が見えなくなったのを確認してから、ゆらのは、ふっと息を吐いた。白く濁ったそれは、まだ青色がいくらか残る空にゆっくりと溶ける。
歩き出そうとして、立ち止まる。妙に、さっきの少女が気になっていた。
最近覚えた、「後ろ髪を引かれる」という言葉を思い出す。何とは無しに、指でショートボブの毛先をなぞる。「んー」と唸ってみたが、特に気持ちの変化はなかった。
「
午後三時前、約束の時間は迫っていた。
服を選んでいたら、いつの間にか時間が経ってしまっていたのだ。駆け足でなければ、間に合わないかもしれない。
でも、ゆらのは、何もない道を何度も振り返った。
「
ゆらのはそう言って、西の方角を見上げた。
それは、簡単に表現するならば、鳥の形をした霧のようなもの、だろう。
確かにいる、と感じた、その次の瞬間には姿が見えなくなっていそうな、現実と虚構の間を行き来する鳥。
ゆらのは、无言が言葉を理解しているのか知らない。表情が現れることも、声を発することもないそれは、優雅に彼女の周囲を舞うだけだった。
「今の子、无言の方を見ていた気がするのよね。……あたしの勘違いかもしれないけれど、なんだか……ううんと……いつものとは……また違う気がして……えっと」
適切な言葉を思いつかなかったのか、ゆらのは顔をしかめた。
しばらく首を前後に振ったり、意味もなく飛び跳ねていたり していたが、やがてもう一つ、息を吐く。背負ったナップサックの紐の位置を、やや調整した。
思考は既に止まっていた。
もともと、じっくり物事を考えるのは得意ではなかった。
『人間、頭を蹴り飛ばして意識を失わせれば、どうせ動かなくなる』というのが、ゆらのの母からの教えだ。考えるより、蹴った方が早い。
例しに軽く膝を曲げ、その溜めで勢いよく足技を繰り出す。空を鋭く切り裂いたそれからは、ビュッ、と心地の良い音がした。
もう一発、空中に蹴りを入れようとしたところで、声がかかった。
「……ゆらのちゃん?」
「っ、光斗さん!」
慌てて 振り返ったゆらのの前には、明るいヘーゼルナッツ色の瞳をした少年がいた。
既に腰の高さまで持ち上げていた足を、慌てて地面に振り下ろす。じん、と衝撃が来るのもかまわず、スカートのひだを調整し、乱れてもいない前髪を直した。无言に軽く合図を送ると、霧状のそれは、ゆらのから、やや距離を取る。
光斗、と呼ばれた少年は、ゆらのが落ち着くまで、しばらく彼女をにこにこ見つめていた。
瞳と同じ、ヘーゼルナッツの色をした彼の前髪は、その右目が隠れてしまいそうな程伸びている。後ろはむしろさっぱりとしていて、狼のたてがみのようだ。
ゆらのが「……はっ!」とその視線に気がついたところで、光斗は何も無かったかのように口を開く。口元には笑みが浮かんでいる。
「待ちきれなくて、迎えに来ちゃった。 ああ、荷物持つよ。算数と英語の教科書が入っているもんね、重いでしょ」
「いや、えっと、あの、力には自信があるので! それからごめんなさい、あたしぼうっとしてて、遅れちゃって」
顔を真っ赤にして腕を振り回すゆらのを、光斗は微笑ましそうに見守る。ゆらのの反応を、分かって楽しんでいるようだった。
(何言ってんのあたし! 力に自信があるって、確かにあるけれど! それにしたって、光斗さんが迎えに来てくれたって、こんなに嬉しいことはないわ! あぁ落ち着きなさい、ゆらの、あなたは折角の約束に遅れそうになっていたの! ええと、どうしたら……!)
ゆらのは脳内でそんなふうに騒いだが、言葉にはしなかった。言葉に出来るはずもなかった。
光斗は、ゆらのの心情を知ってか知らずか、いつの間にやら 、ゆらのの横に並んでいる。ゆらのは歩道側で、光斗の方を見上げるしかない。
「大丈夫だよ、時間は沢山あるから。じゃあ、行こっか」
さりげなく頭を撫でられ、ゆらのはさらに顔を赤くした。
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