第1話 ゆらのととはゑとさいしょの未言

∞第1幕∞

 白く結露した車の窓に、とはゑは小さな手を当てて、外が見えるように未水まだみずを拭った。水で歪んで透けた外の景色が見える。

 空は青く、太陽の光は真っ直ぐに伸びていて、その光をそこここにある根雪が反射して眩しい。

 とはゑは、今まで見たことのなかった雪が、ごろごろと街のあちこちにうずくまっているのに目を丸くして見入っていた。父親の千秋が運転する車は信号の少ない道なので停止することが少なく、とはゑは景色と一緒に置いていかれる少し汚れた雪を目で追って、首が忙しなく左右に振れている。

 その拍子にかけていた眼鏡が傾いてしまっていても、雪に夢中で元に戻すという発想もないようだ。

「とはゑ 、手が冷えてしまうわよ」

 とはゑは、ずっと窓に触れたままだった右手を、一緒に後部座席に座る姉のにこゑに取られた。

「ふあっ」

 にこゑがとはゑの冷えた指先に息をかけて温めると、とはゑは思わず声を漏らして体を跳ねさせた。自分では気付かない内にすさんでいたところに、血流が戻ってきたのがむずがゆくて意識するよりも早く体が驚いてしまったのだ。

 そんな妹のかわいらしい様子に、にこゑはころころとのどを鳴らして笑いつつ、眼鏡の位置も真っ直ぐにしてあげた。

 それからにこゑは、小間使いが姫にそうするように、うやうやしくとはゑに手袋をはめる。

「あ、ああ、相変わらず、仲がいいね。いっ、いいことだね」

 前でハンドルを握る千秋ちあきが、バックミラー越しに二人の仲睦まじい様子を見て、言葉をつかえさせながら、眼鏡の奥の目を細めた。引っ越しの長距離運転、それも慣れない雪の山道を抜けて疲れているせい、という訳でない。

 いや、疲れているのはそうだろうけども、二人の父は元来からの、きつ音持ちなのだ。そのために話していても頼りなく思えるし、実際、何をするにも要領が良くなかったり間が悪かったりして、わりと頼りない。

 娘達にも、愛しているからという以前に、強く物を言えなくて、結果としてかなり甘い父親に納まっている。

「よくないわよ。和聲にこゑのシスコンぶりと言ったら、甲斐甲斐しく妹の世話を焼きすぎて、どっちも自立しないのよ。永久会とはゑったらまだ一人でお風呂にも入れないのよ、わかっている?」

 だから、助手席に座る母親の琴音ことねは、元からキツい顔をさらにキツい表情にして、眼鏡越しの視線で夫を射抜く。

 付き合う前から、琴音には敵わない千秋はたじたじとなり、何とか手元を狂わせずに走行を維持するのがやっとで、苦笑いと共に黙ってしまった。

「あら、母さん、貴女はこの麗しい姉妹愛を裂こうと言うの? とはゑも、わたくしから離れたくないわよね?」

 にこゑが蛇のような微笑みを向けて尋ねると、話の意味がよく分かってない様子が見て取れるとはゑは、素直にこくこくと頷き、姉の腕にしがみ付いた。

「ほら、とはゑもわたくしが大好きなのよ」

「だから心配しているんでしょうが、このシスコンは本当に」

 何故か母親の何倍も口と妹の心を掴むのが上手いにこゑに、琴音は毎度ながらお手上げだった。

 この一連の流れも、仲がいい証拠だと勘違いしているとはゑは、にこにこと終始笑顔でいた。

「つ、着いた、っよ」

 やがて、車が停まった。とはゑは、姉の体越しに新しい家を見ようと上半身を傾けてみたけれども、そちら側の窓は曇ったままで全然見えなかった。

「少し待ちなさい」

 にこゑは、妹の無邪気な仕草にくすりと笑い、車のドアを開けた。そのままにこゑが車から降りると、とはゑの視界にも、新しい家の姿が大きく映る。

 二階建ての一軒家は、今までマンション暮らしだったとはゑには、とても眩いものに見えた。にこゑに手を取られ、足を片方ずつ車から出して、地面に着ける。

 しっかりととはゑの両足が、しっとりと濡れた道路に接したところで、にこゑはその手を引いて、とはゑを外に立たせた。

 とはゑは、改めて家を見上げた。

 左右対称で、真ん中に引き戸の玄関が南になるこちら側を向いている。屋根は傾きがあって、その上に乗った雪が融けてしとしとと雫を落としていた。一家族が暮らすには随分と大きいととはゑには感じられたが、この地方で古くからある農家の家と比べると似たり寄ったりではある。

「これが雫簾しづくすだれ……確かに、玉簾のようにも見えるわね。これが、未言屋店主みことやてんしゅの見ていた光景なのね」

 とはゑの後ろに立った琴音が、娘と同じ光景を見ながら、感激のこもった声でつぶいた。

 とはゑがその声に反応して振り返って見上げると、母は満足そうな顔で、とはゑに微笑みかけてくれた。

「さ、今日からここが小川家のお家よ。入りましょう」

 琴音は姿勢正しく颯爽と玄関へ進み、カバンを探って、それから、ちょうど車を家の前に入れて降りてきた千秋に顔を向けた。

「千秋くーん、鍵ちょうだーい!」

「う、うん、待ってね」

 しっかり者のようで、時々抜けている母の様子に、とはゑは思わず、くすりと笑ってしまったのだった。

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