垣根康孝生態記録
白鴉
観察日記その1
私がある男と呼んでいる者がいる。
彼は正体不明のとある誰か、だ。
私は彼の名前を知らない。だから彼を名無しの権兵衛と呼ぼうと思った。けれど名無しとはアメリカにおいてはジョンやマイケルと呼ぶらしいから、山田太郎が彼にふさわしいか、と。
彼はおそらく医者であった。または研究者であった。
それもまた不確かな推測で、ただ白衣を着ていたという事象から導き出された複数の選択肢の一つに過ぎない。
彼は非常に薄情だったのだろう。真夏の午前二時に私は書き留める。
前と何も変わらぬ白衣を着て、偶然に引っ張られるかのように私の徘徊ロードに現れた。
しかし彼は一人ではなかった。濃い化粧の女性と一緒だった。
その人は派手なドレスなど着ていなかった。シンプルで高くないファストファッション。キャバ嬢などではなく、年若な大学生のようにも思われる。
認めたくはない。彼女は美人だった。かすかに唇を噛み締めると、歯に詰まっていたブルーベリーが取れ、弾け、口いっぱいに広がった。
あどけなく甘酸っぱい。
ほどなくして彼女は駆け足で駆け去っていった。私の横を通り抜けて去っていった。すれ違いざまに見た顔が、涙を含んだ目元が、振られた証を持ち合わせた。
「出ておいで」
私は彼に気付かれていた。私は隠れた柱より出で、俯きながら彼に近づいた。
「ああ、やっぱりいたのか」
彼は猫を擦っていた。ふてぶてしいデブ猫だった。マフィアのボスの様な目つき、愛着のある毛並み。
もふもふ。
「コロは癒される」
彼は癒された。猫は鳴き声を上げた。
彼が気付いたのは私ではなかった。少し落ち込んだが、顔も名前も知らぬ他人の人。誰が知ろうか、誰が気付こうか。この場にいては不審者と間違われるに違いないと、私は颯爽と帰っていった。
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