06 お風呂

「極楽うう」


 などと喉から声を絞り出しながら、身体の角度を浅くして全身でゆったりお湯に浸かった。

 真っ白な入浴剤の芳香が、ほんのり湯気とともに立ち上って鼻腔をくすぐった。


「なんか、おじいちゃんみたいなこといってる」


 妹のふみが、全身泡だらけになってごしごしとナイロンタオルで自分の身体をこすっている。


「なんだよ、妹のくせに生意気に」


 人をおじいちゃん呼ばわりなんかして。

 まだ十一歳だぞ、というか女子だぞ、わたしは。


 一昨年に亡くなったおじいちゃんも、お風呂でよく極楽極楽いってた気がするから、そのことをいっただけかな。

 まあいいや、どうでも。


 水鉄砲でも食らわせてやろうと忍者の忍術のように組んでいた指を、真っ白な水面の下にちゃぽんと沈めた。


 シャワーで全身の泡を流し終えた史奈が、飛び込むように湯舟へと入ってきた。


「っと、溢れる溢れる」


 ぐらぐら揺れる水面に、わたしは慌てて自分の上半身を持ち上げて水位を下げた。


「あたし太ってないよ」


 バカにされたと思ったのか、史奈は口元をきゅっと結んで頬っぺたを膨らませた。


「そうじゃなくて、大きくなったってことだよ。もう四年生なんだから。あ、そういえばクラブは決めたの?」


 わたしたちの通う小学校は、四年生から水曜五時限目にクラブ活動を行うのだ。


「まだ。今度の火曜までに決めればいいらしいから」

「続けられるのが一番だけど、出来ればスポーツ系がいいと思うよ」

「お姉ちゃんは運動神経いいから、簡単にいうけどさあ」


 史奈は身体を水面下に深く沈め、顔も下半分沈めると蟹のようにぶくぶくと泡を吐いた。そういう姿勢をとられると、わたしも湯舟に入っているからきつくて仕方ないんだけど。


「わたしは別に、運動神経は普通だよ」


 妹は、姉のひいき目でもごまかしようがないくらいの運動音痴だからな。他人が良く見えるのだろう。

 自分の能力が低いことを自覚しているものだから、体育の授業を嫌々やる程度で普段まったく運動をしないんだよな。

 機会があっても、まず飛び込まない。

 苦手だからこそ、たっぷり動いて鍛えた方がいいのに。


 やや逆説的というか、ピントのずれた例えになってしまうけど、わたしなんか野球というチームスポーツをずっとやっていたというのに、こうなのだ。

 家ではそこそこ喋るし主張もするけど、一歩外に出れば他人とコミュニケーションはまともに取れないし、気弱で自分をろくに主張出来ない。もしも野球をやっていなかったら、そう思うとぞっとするというものだ。


 妹は社交的なところが多分にあるから、勉強はもちろんのことたっぷりと運動もして、文武に自信さえつけばもっと活発になれて毎日が楽しいと思うのだけどな。

 まあ勉強と運動だけが自分に自信を持つ方法ではないけれど、わたしがそうした面でとにかく自信がないものだからなおのこともったいないと考えてしまう。


しゆん、入れちゃうぞー」


 向こうからお父さんの声がしたと思ったら、扉が勢いよく開いて小学三年生の弟が真っ裸で入って来た。


「サウルススクリュースティンガー!」


 くねくね腰を動かしたかと思うと、ヒーローの技を叫んで腕を突き出した。


「かかってこおい、ブルーサウルス!」


 妹が湯舟から身を乗り出して、お互いの拳をぐりぐり突き付け合った。

 脳内ではどんな壮絶な戦いが繰り広げられているのだろう。

 わたしに想像つくはずもない。何故ならば、こういう子供向けヒーロー番組って、小さい頃にまったく観てなかったから。女の子向けのすらもだ。裏でやってた歴史探訪とか、そんなのばっかり観てたよ。


「決着ついた? 地球の平和を守ったら、今度は身体をよおく洗って綺麗になろうねー」


 わたしは弟の身体を洗ってやろうと、湯舟から腰を上げ立ち上がった。

 ばん、といきなり浴室の扉が開いた。


「俊太あ、よーく肩まで浸かれよお」


 お父さんがすき間からヒゲ面をぬっと突き出してきたのだ。

 その瞬間、時間が止まっていた。

 突然のことに、わたしは硬直してしまっていたのだ。身体も、思考すらも。


 時が動き出した瞬間、ぎゃあ、と悲鳴を上げて、わたしはざぶうんとお湯に身体を沈めた。

 どんな巨大戦艦すらも転覆してしまいそうなほどに、ぐうらぐうらと激しく水面が揺れた。


「バカ! 入って来ないでよお!」

「なんだよ、俊太はいいくせに」

「俊太はまだ小さいでしょ!」


 わたしはいまにも泣き出しそうな、ひっくり返った声で叫んだ。


「お前らだって小さいじゃないかよ。なんだよ、去年まではお前の方から、お父さんと入るーって来てたくせに」

「去年は去年で今年じゃないの!」


 わたしの必死な叫びに、鈍い鈍いお父さんはようやく本気で嫌がられていることに気がついたようで、ちょっと不機嫌そうに唇を尖らせ、「ぷんぷーんだ」などと子供のようなことをいいながらヒゲ面を引っ込め、扉を閉めた。


「せっかく極楽気分だったのに、一気に墜落だあ」


 もうわたし五年生なんだよ。お父さんも、そのくらい理解してよお。


 肩を落としながら、今度こそ湯舟から出た。

 はあ、とため息をつきながら屈み、タオルに石鹸を擦りつけ始めた。


 史奈と俊太が、なんだか妙ににこにこと笑みを浮かべている。


「なあに? 気持ち悪いなあ」

「うん、さっきのお姉ちゃんが、なんだか面白くってえ」


 妹はけらけら笑い出した。

 ……失礼な奴だな。


「ぎゃあ」


 俊太が、男の子のくせに両手で胸をおさえながら、さっとしゃがんだ。

 さっきのわたしの真似をしているのだ。


 わたしは思春期入口の身に降り懸かったあまりの羞恥に言葉をつげず、ぽかんと口を開けているばかりだったが、なおも無邪気にはしゃいでいる妹たちを見ているうち、なんだかすべてがどうでもよくなってきて、いつの間にか一緒になってバカみたいに大笑い。

 お湯をかけあいながら、いつまでも笑い続けていた。

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