第9話 そして終わる、自分探し
城に併設されている宿舎の門を開ける。
騎士団隊長の最後だというのに、見送りはいない。
寂しいものだったが、それはサラ自身が願ったことだった。
もちろん、出迎える者もいない。
誰にも知らせていないのだから当然なのだが、サラとしては身一つで始めるには相応しい門出だとも思っていた。
なのに、
「美しいお嬢さん、お名前を伺っても?」
「…………サラ」
思わず答えてしまった。
が、なんでそこに居るのか。
声にならず飲み込んだ音はきちんと伝わっていたようで、彼は少し得意気に笑う。
「驚かせようと思ってな」
待っていたらしい。
そもそも、姿が変わったことすら知らせていないのに。
「なんでわかるんですか」
「わかるさ」
なぜ、という問いにまったく答えていない。
思わず口を尖らせて、その仕草はさすがに大人げないと慌てて引っ込める。
いつも、彼の前では少し、自分は子どもに戻ってしまう気がした。
サラはグイッと距離を縮め、彼の真下から腕を伸ばした。
見覚えのある顔に、見覚えのない装飾品。
金糸雀色の髪に触れても、黙ってされるがままだから、いいのだろうと。
片眼を覆った眼帯に触れる。
そっとずらせば、空洞が顔を覗かせた。
視界があっと言う間に膜を張って、サラの世界を曖昧にする。
「泣くなよ」
困ったように、ルークが言った。
「だって、……だって、」
言いたいことは沢山あるのに、しゃくり上げて声にならない。
誰もかれもが戦っていた。
自分の場所で、自分の精一杯で。
この人も、
たぶん、戦場で物資が滞らなかったのはこの人が一枚噛んでいたせいだ。
絶対にそうだ。
「あれだからな、別に取られたんじゃないぞ。自分で置いてきたんだからな? 駄賃代わりだ。あいつらにとってはよっぽど高くついたんじゃないのか?」
胸を張ってルークが笑う。
店をやめると言ったルークと揉めた商店が、
――そこまで言うなら、相応の覚悟はあるんだろうな?
なんて脅し紛れに屈強な男たちを従えてガタガタ抜かすから、自分でナイフを突き刺してくり抜いて商品棚に飾ってきたらしい。
「大丈夫、
はははと笑い飛ばした元兄は恐ろしく肝の据わった男だった。
知らなかった。
「まあ、その後は大変だったけどなぁ。……主に体調的な面で」
熱を出してぶっ倒れて、寝たり起きたりの繰り返し。
かといってあれだけ啖呵切ったのだ、店を立ち上げないわけにもいかず、立ち上げた店を放置するわけにもいかず、フラフラのまま這うように生きる事約半年。
「あの頃の記憶がまったくない」
堂々と言い切ったルークに、サラは思わず自分の額に手をやった。
どうして自分の周りはこうも向こう見ずな連中であふれているのだろう。
「それはもちろん、自分の事も入ってるんだろうな?」
もちろんあなたの事だ、と思ったけれど、びしっと額に指を突き付けられては「違う」とは言えず、あははと誤魔化し笑い。
確かに兄から見れば自分は「向こう見ず」かもしれないが、彼は心配性が過ぎるのだ。
周りと比べれば大したことはない。
……たぶん。
「まあいいさ、説教の時間はたっぷりある」
「え、」
とても心胆寒からしめる言葉が今聞こえた気がする。
「なんだよ、住む場所ないだろう? それとももう宿の手配でもしてたか?」
ぶんぶんとサラは首を振った。
「ならウチに来ればいい。下階は商店として使ってるけど、上は住居だ。で、住人は寂しいことに俺一人」
従業員には近くの家を貸して、家族ごと抱え込むことにしているらしい。
離職率が格段に低くなるんだとか。
それはとても魅力的な提案に思えた。
慣れた人の傍は、きっと安心する。
けれど、少し考えてサラはおずおずとルークから距離を取った。
「あの、でも、……やっぱり、迷惑かけるからやめておきます」
「いまさら何を遠慮してんだ? 寝泊まりなんてずっと一緒にしてただろう?」
リリィ時代の話である。
なんならアルトの時も、屋敷にいた時は遠慮なく泊まっていっていた気もする。
肩身の狭い思いをしていたアルトにとっては、彼の図々しさは救いでもあった。
「サラ?」
それでも首を振るばかりのサラに、ルークは怪訝な顔をした。
「サラ」
有無を言わさない声がサラを二度呼ぶ。
いつだって逆らえない声だ。
だって、心底案じる声だから。
止まりかけていた涙がまた落ちた。
「…………あ、悪夢を見ます。戦場の、夢を。それで夜に、叫んで、起きるから。迷惑を、」
たどたどしく紡ぐ言葉は、頭をくしゃりと撫でる手に止められた。
懐かしい手だった。
安心する温度だ。
「……なあ、サラ、もう一度俺にチャンスをくれないか? お前に手を差し伸べる権利だ。俺はどうしてもそれが欲しい。取り戻せるなら、何でもする」
だから頼むと、ルークが苦しそうな顔をした。
その手に、きつく握られていたものには見覚えがある。
手紙だ。
今となっては恥ずかしいばかりの。
弱音の詰まった、
たぶん、当時のアルトよりずっと、大変な思いをしていただろうルークに送ってしまった、大間違いの手紙。
「それ、は!」
「ごめんな。助けてやれなくて、救ってやれなくて、駆けつけてやれなくて。こんな、不甲斐ない俺を頼ってくれたお前一人、攫いに行けない情けない男で、ごめんな」
「違うの! 別にあなたを苦しめたかったわけじゃ、」
焦って言い募るサラに、ルークが膝をついて下からサラを覗き込んだ。
頬に添えられた手は、騎士のように固くはない。
それでも、苦労を知る人の手だった。
「サラ、叫んでもいい、迷惑をかけていい。俺にはお前を抱きしめられる腕がある。お前を包み込める体がある。夜通し語れる声がある。お前の見たいものをみせてやれる財がある」
こつりと、額を合わせる意味は、
祝福の祈り。
幸せを願う人に贈る、こころからの、
「俺は頼られたい。君に頼られる男でいたい。君が頼るのは、――俺であってほしい」
見れたものじゃない顔をしている自覚がある。
サラの意志を離れた涙がぼたぼたとルークの顔に落ちた。
それが申し訳なくて必死にルークの顔を拭ったら、彼はなんだかくすぐったそうな、困ったような、……サラの好きな、情けない笑い方をした。
「俺には、ユージンのような権力も威厳もない。リリィのような探求心も頭脳も、あの男たちのような武力も、強靭さもない。でも、できることはある」
ルークが、睫毛すら触れる距離で瞳を輝かせた。
「君のためなら、平和すら買ってみせる」
大言壮語、というのだ。
そんな馬鹿げた夢を、たった一つの願いの為に、彼は語る。
「だから、もう一度、手を伸ばしてくれないか?」
掴み損ねてしまった、サラの小さな願いを。
いまさら、
いまも、
救おうと、
そんな、
「ばかなことを、」
馬鹿なことに、必死になる必要なんてないのだ。
こんなちっぽけな、弱くて、なにもできない自分のために。
「馬鹿なことじゃないよ。それは、君の隣で、君を守る権利だ。俺にとっては、世界で一番価値がある」
サラは涙を止める機能がなくなってしまったのではと心配になった。
サラと、ルークが呼んだ。
彼は、どんな名前でも、同じ色と、同じ温度で呼ぶ。
サラは、それを聞くのが、一等好きだった。
「サラ、サラ、どうか、……どうか、」
祈るように、ルークが囁く。
続く言葉を、サラは知っているような気がした。
言葉より雄弁に、瞳が、手が、声が、溺れるほどの優しさが、語るから。
「――俺の、妻になってくれないか?」
ふふと、思わず笑う。
泣きながら、笑った。
だって、あれだけ饒舌だったのに。
「どうしてそこだけ、そんな、不安そうに、言うんですか」
ルークは少しだけバツが悪そうに眉を下げた。
「本当はもっと時間をかけるつもりだったんだ。目一杯甘やかして、どろどろに溶かして、俺が居なきゃならないようにして、それで言うつもりだったのに。お前は思ったよりずっと頑固だったから」
頑固だったから、不安になった。
この手を取らず一人で生きていこうとするんじゃないかと。
するりと抜けて、どこかにいってしまうんじゃないかと。
しかも彼女ときたら、得意技はころころと体と魂を入れ替えることだ。
「うかうかしてまた体を変えられちゃあ、たまったもんじゃない」
せっかく、手に入れられる
「……長いこと、待ったんだ」
お前が
さあ煮るなり焼くなり、なんとでもしろとルークの目が語っている。
その顔はまるで断罪を待つ罪人のよう。
サラはそっと、ルークの手を取った。
少し冷たい汗の滲む、触れなければ気付かないほど小さく震えていた、でも大きな手。
その手に熱を分けるように頬を寄せて、目を閉じる。
「……もう、変わらないわ」
言葉はするりと零れ落ちた。
心は、後からついてきた。
そう、
サラはサラのまま。
もう、誰にも、ならない。
「だって、」
肩書や身分は、体に付随するものだから。
それを自分ほどに知っている者はいないから。
「――あなたの妻の座を、……他の誰かに、譲るわけにはいかないもの」
サラは笑った。
紫の大輪のように。
夜を彩る星のように。
金色に萌える稲穂のように。
深海に降る雪のように。
突き抜ける空の青のように。
明ける空に昇る、鮮やかな太陽のように。
巡る時の中で得たものたちが、輝いて、煌いて、瞬いて、花開くように、微笑んだ。
誰でもない彼女は、何者にもなれた彼女は、何者にもなれずにいた彼女は。
やっと、なりたいものを見つけて、手を伸ばす。
この手を取る人と、
この体と、
この魂で、
――――これからを、生きていく。
数多の英雄が現れた時代、この名を挙げないわけにはいかないだろう。
混迷深まる世界で物流の手綱を握り、荒廃へ向かう人心に歯止めをかけ、世界平和に貢献したことは彼の広く知られた功績の一つである。
武力、政治力、他のあらゆる力をもってしても、今なお世界を掌握したと言われる人物は彼以外にはいない。
そんな彼は実に愛妻家であったと、意外な一面も後世には伝えられている。
――だが残念ながら歴史には、彼の妻の名は残されていない。
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