第9話 リリィとアルト
金糸の髪がさらりと流れた。
汗を拭いていく、冷たい布の感触にふと意識を浮上させる。
「気分は?」
そう聞く声に、アルトは答えた。
「上々」
覗き込んでいた緑の瞳がくしゃりと細くなる。
それが彼女の笑い方。
「無茶をする」
「……でも、生きてる」
身を乗り出していた彼女が身じろいだのか、ぎしりとベッドが軋んで、呆れたような声が続く。
「馬鹿だね」
熱はまだ下がらない。
その苦痛を、リリィは知っていた。
どれだけ苦しいかを、自分ほどに知っている者はいない。
それを自ら引き受ける馬鹿が目の前にいた。
馬鹿を馬鹿と言わずになんとするのか。
――けれど、アルトは閉じそうな目蓋を必死に開けて、リリィの緑の目を探しながら言うのだ。
「死ぬつもりなんて、なかった」
だから、怒らないで。
「想定内だよ」
こうなることは。
「全部、うまくいった」
アルトは自慢げにふふ、と笑う。
だって、自分のギフトは『健康』なのだ。
相手が病気なら、たとえ死の淵にいたって勝負には持ち込めると思っていた。
勝算ありの勝負で、そして勝った。
「どこが『うまくいった』のか教えて欲しいよ。こっちは君の家族に喧々囂々、散々詰られ責められ、泣かれて、大変だったんだから」
これにはさすがのアルトも目を丸くした。
「なに、想定外?」
リリィの顔が意地悪そうに笑う。
「……いいえ、そうね。とても、想定内」
熱のせいではない涙が流れる。
それをリリィは指でそっとすくった。
「愛されていたんだね」
「ええ、愛されて、いたのよ」
自慢の、家族だから。
大好きな人たちだから。
「どうか、仲良くしてね。幸せに、してね」
「……努力するよ」
それだけで、君に報いきれるとは思わないけど。
それだけで、君のくれたものに足りるとは思えないから。
「他には?」
そう聞く。
だけどアルトはゆるりと笑った。
「あなたはきっとたくさんの偉業を為すでしょう。……でも、そんなことを考えなくてもいいの。あなたは、好きな事をすればいいの」
知りたいことを、知ればいいの。
行きたいところに行って、没頭したいだけ没頭して。
読みたいだけ読んで、書きたいだけ書く。
「考えたいだけ考えて、やりたいだけ試すの。だって、あなたには、それをする時間があるのだから……」
ただし、とアルトは一転して厳しい口調を作った。
「健康には、気を付けること。睡眠はちゃんととってね。もちろん、食事も。研究にのめり込み過ぎて、体を壊したりしたら許さないわよ」
「……なるべく、気を付ける」
我がことながら、あり得そうだとリリィは心に刻む。
「ねえ、リリィ。世界はあなたのものよ。大きな、――私にとっては大きな世界も、その小さな手の平に、いつかきっと収まるでしょう」
果てない願いも、いつか終わる。
渇望を満たし、欲望を満たした、その先。
誰も見えなかったものを見て、誰も掴めなかったものを掴み、誰もたどり着けない場所へ。
それは自分たちが決して見ることが叶わない景色。
でも、――彼女は、きっとそこに立つ。
アルトは力のない手を、そっと伸ばす。
リリィはその手を取った。
かつて自分だった顔。
その柔らかな頬に触れる。
「あなたが知るだろうたくさんの世界の秘密の中で、ほんのちょっと。あなたが大丈夫だと思う範囲でいい。少しだけ、私たちに、それを教えてくれたら、うれしい」
愚かな人間の、進化を後押しする、少しのヒントを。
「それだけ?」
望むのは、それだけ?
アルトは小さく頷いて、再びの眠りについた。
大賢者、そう呼ばれる者を知らない人間はいないだろう。
世界で一人、決して辿り着けない領域に至った者に贈られた称号だ。
金色の髪と緑の瞳を持つ美しい女性だったと伝えられている彼女は、やがて人を超越し、永遠の若さと命を手に入れた。
長らく世界の導き手として君臨した彼女は五百年余りを生きたのち、自ら終焉の時を定め、望んで命を終えたとされる。
もはや誰も呼ばないその名を、――リリィという。
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