第8話 生まれた日

 まどろみから浮上する。

 体はだるくて力が入らない。


 額に触れる指が冷たくて心地よかった。


 昔の夢だとアルトは気付いた。


 ならば目を開ければ、そこには彼女が居るはずだ。


「……あら、目が覚めた?」


 口を開くのが億劫で、アルトは頷くに留める。

 見上げた彼女は手に本を持っていた。

 どうやら彼女の膝の上で寝こけていたらしい。


 ……貴族令嬢が床に座るなんて。

 それもあれほどの名声を手にしている彼女が。



 最初は床で眠る自分を見て狼狽していたのに最近は慣れたものだ。

 冷たい床に座り込むことに苦言を呈したせいか、ちゃんと敷布まで用意されている。

 そういうことじゃない、とアルトは言いたかったが、どうせ彼女はにっこりと笑って聞きやしない。


 寝ぼけ眼の中で、ぼんやりとした輪郭だった彼女が徐々にはっきりとしてきた。

 美しい少女だった。

 銀色の髪と、紫の瞳。

 冷たく見えるはずの色は、陽光に滲んでひどく淡く、優し気に揺れた。


「もう少し横になっていた方がいいわ。あまり顔色がよくないから」


 熱を持った額に張り付いた前髪を、壊れ物にでも触れる様な繊細さで細い指が退けていく。

 それが気持ちよくてほうとアルトは深く息を吐いた。


「苦しいの?」


 心配そうな顔が覗き込む。

 そうではない。

 でも声を出すのは辛くて、首を振るのも目眩がするから静かに目を閉じる。

 意識はあると主張するために手を挙げた。


 安心したのか読書に戻るために本を開いた気配がする。


 窓を開けているのだろう、そうしていると風が穏やかに木々を揺らしている音がした。

 図書館特有の、本の匂い。

 たまに混じるページをめくる紙の音。


 苦しいだけの人生で得た、たった一つの平穏。


「……今日は、なにを読んでるの?」

「アルト」

「いい、大丈夫。聞かせて」


 声を、聞かせて欲しい。


「笑わない?」

「なんで笑うのさ」

「…………これ、絵本だから」

「……ごめん、笑う」


 顔が見たくて重い目蓋を無理矢理開く。

 不機嫌そうな顔も本気で怒ってはいないとわかるくらいに、付き合いは長くなった。


 図書館の友人は自分にだけ見せる顔がある。

 婚約者がいる女性だとわかっていたけど、これくらいは許して欲しかった。

 何もかもを得る男が少し羨ましい。


 いつ終わるとも知れない命なのだから。

 少しくらい。

 少しくらい。


 アルトは考えるのをやめた。

 考えるのは怖い。

 すぐ近くにある何者かを考えてしまう。


 昔から体が弱かったから、出来ることと言えば本を読むことくらい。

 アルトは同年代では自分が一番本を読んできたという自信があった。

 でも積み上げた知識が何の役に立つと言うのか。

 この身に巣食う病魔には歯が立たない。


 文字を追う目はただ字面をなぞるだけで、もう作業のよう。

 最近はそれすら負担で、すぐに具合が悪くなる。

 もういっそ、と何度も思った。


「アリシアは本が好きだよね」

「あら、アルトもでしょう?」


 アルトは苦笑を返す。

 違うとは言えなかった。


「本は面白いわ。知らないことを知ることは楽しいし」

「知らないこと、……なんてアリシアにもあるの?」


 アルトが知る限り、アリシアは一番の知識人だった。

 成績も優秀で、物事の全てに精通している。

 いまさら何を知ろうと言うのか。


「知らないことだらけよ? 一生を費やしたって、『知らない事を無くす』なんて無理でしょう」

「……そうかな?」


 アルトは首を傾げた。

 疑問なんて一つも思い浮かばない。


 全ては、川の流れのようなもので、ただ流れていくだけだ。

 自分と同じように、抗えず、翻弄されるだけ。

 疑問なんて挟む余地すらない。

 理不尽は誰の身にも起こり得る。

 それがたまたま自分だっただけのこと。

 受け入れる以外に道なんてない。

 答えなんてない。

 だから考えるなんて意味がない。

 憤る理由もない。


 諦観だけが、身を守る術なのだ。


「アルトは知りたいと思わないの? 疑問だと思わないの?」


 揺さぶらないでくれ、そう思う。

 世界は見たくないもので溢れている。

 知りたくない事でいっぱいだ。


「一体なにを疑問に思えって? 例えばアリシアはなにを疑問に思うの?」

「例えば? そうね、――私がなぜ生きているか、とか」


 例えば、自分がなぜ死ななければならないのか、などどうして知りたいと思うのか。


「なにそれ。哲学? あんまり興味をそそられないな」


 深く考えたくはない話題に、アルトはバッサリと切り捨てた。

 怖いから感情を閉ざす。

 恐ろしいから現実を閉ざす。

 いつものように。


「そうじゃないわ。息をして生きて、息を止めれば人は死ぬの。なぜだと思う? 人の体の構造って不思議で複雑。アルトはそう思わない? ねえ、風はなぜ吹くの? 空は? どこまで続いているの? どうして昼夜があって、どうやって太陽は昇るの? 妖魔はどうして生まれたの? 迷宮は? 『ギフト』ってなにかしら? 魔術はどうやって発動しているの? ギフトと何が違うの? 魔具はどうやって動いているのかしら」


 アルトは目を見張る。

 その全ては、アルトが疑問になんて思ったことがないものばかりだからだ。

『そういうもの』だと認識していたものたち。


「そんな当たり前のことを……」

「『当たり前』には、そう在るべき理由がある。では、それはなに? それはきっと世界を形作る法則ルールよ。あるべき理由を紐解けば、世界のルールを知ることが出来るかもしれない。ねえ、ルールって誰が作ったの? 神さま?」


 アリシアは特別だ。

 アルトはいつもそう思っていた。

 優しくて、柔らかで、こんな自分にも優しくて。


「私こんなことを考えたことがあるわ。――もしかしたら、神さまだってそのルールに従って縛られているのかもしれないって」


 そして、

 おぞましい程に異端。

 その時、初めてアルトは気付いた。


「それって、世界を知れば、神さますら超えることが出来るってことだと思わない?」


 口にしてはいけない言葉が簡単にまろび出る。

 朗らかに、禁忌を禁忌とも思わない顔で。

 彼女は世界の扉をノックする。


 鳥肌が立った。

 怖気が走った。

 アルトは戦慄していた。


 なのに、


「ねえ、ワクワクしない?」

 そう問う彼女に即答した。


「する」


 でしょ?

 微笑むその瞳の奥に見えたのは世界の真理。


 当たり前なんて一つもない。

 世界を見渡してみれば、謎だけが溢れている。


「アルト? どうして泣いてるの!?」


 考えるのは嫌いだ。

 だって、どうしたって身近な者の事を考える。

 すなわち、「死」とは何者なのかと。


 だけど、それを押し流す熱があった。

 いま、生まれた。


 なぜ涙は流れるのか。

 感情はどうして生まれるのか。

 心臓はどうやって動いて、何をすれば止まるのだろう。


 体を燃やす熱。

 心を動かす熱。

 ぐちゃぐちゃになって、頭が混乱する。


 知りたい。

 知りたい、知りたい、知りたい。


 世界とは何か。

 世界を彩る命たちはどこからきたのか。

 なぜ生きるのか。

 なぜ、死ぬのか。

 四季が巡り、空が時を数え、人が命を繋ぎ、その先に何があるのだろう。


 神とは?

 自分とは?

 君は誰で、僕は何者なのだろう。


 全ての当たり前が、疑問に変わる。

 それは、世界が転換した瞬間だった。


 アルトの世界は、その日変わったのだ。

 アルトが誕生した瞬間だったと言っても過言ではない。


 以前までは生きながらにして死んでいたようなものだ。

 思考をやめ、眠りに沈み、全てを拒絶していた。

 その時間を自分にくれとアルトは叫ぶ。

 その無駄にしてきた時を、分けてくれと。


 かつては考えることが怖かった。

 今は知らない事が怖い。

 知らないまま、死んでしまうことを恐れる。


 知りたい。

 足りない。

 時間が欲しい。

 あれも、これも、まだ知らない。

 疑問を融かすための資料。

 謎を解くための走り書き。

 もう一度読み直したい。

 もう一度、見直したい。

 新たな発見はいつでも、なんどでも、アルトをよみがえらせる。


 それでも無情にも命は残り時間を刻む。

 まだと、思う。

 まだだと、命に噛り付く。

 泥を食っても生き延びたい。

 一瞬でも長く。

 だって、その一瞬で何を知れるだろう。


 霞んだ目で世界を見る。

 滲んだ視界で生を見る。

 沈む意識で死を感じた。


 時間が足りなかった。

 疑問は尽きない。

 生涯、尽きない。

 だから永遠が欲しい。

 飢餓にも似た渇望で、時を欲する。


 自分は一体、こんな強欲な人間だっただろうか。

 でも、そんなことはどうでもいいことだ。

 疑問と謎の前では、些細なこと。


 ああ、時間とはなんだろう。

 概念とは。

 定義とは。

 世界とは。


 知りたい。

 知りたい。

 知りたい。

 頭の中がたった一つに塗り潰される。


 死を目前に。

 あったのは、欲望だけ。

 アルトは笑いたくなった。


 解けた疑問が一つ。


 自分が何者か。

 わかった。

 こういう者だったのだ。

 アルトとは、そういう生命で、命。

 それが生きる意味。


 だけど死ぬ理由ではない。

 ――いまだ、死ぬ理由は見えず。


 問う声が聞こえた。


「生きたい?」


 だから、

 アルトは答えた。


 魂が形を得て、輝いて、叫んだ。


死にたくない知りたい

 と。



 そう、と満足そうに彼女が笑った。

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