第7話 絶望のアルト
「あなたなら他言はしないだろうし」
そう言ってアリシアはリリィになった経緯を教えてくれた。
「魂を交換する禁術……というと」
思い当たる節があって、アルトは天井を仰いだ。
心当りがある。
「あの時か……一緒に解錠の魔術を試した……」
確か解錠したのは、禁書部屋だった。
なにせ魔具を組み立てたのが人の訪れない貴重本部屋だったから。
魔具はとてもではないが女一人と貧弱な少年で運べるものではなかったし、そこには
例の禁術は魔術に類されるが、大変珍しく魔具を使わない『契約魔術』といわれるものにあたる。
当時はそういう分類もあるのだ、という程度の認識で、彼女も特にこれといった反応はしていなかったように思う。
だが、あるいは最初からそれが目的で解錠魔術が手段だった可能性は?
思えば動かせない大きさになることがわかりきっている魔具を、あの部屋で組み立てようと言ったのも彼女だった。
当時は二人で会う場所と言えばそこだったから、特に疑問には思わなかったが。
……なんにしても、アリシアの方が
アルトは脱力して思わず背もたれに全体重を預けた。
リリィは大変バツが悪そうだ。
魔具というものは大抵の魔術に必要で、本来は大仕掛け。
どこかの国の砲台が魔具だと聞いて、その大きさが部屋並みだと知った時二人でため息を吐いたことを思い出す。
――そんな小ささに収められたなんて。
――作った人はどんな天才なんだろうね。
なんだか遠い昔のようだ。
だって、
「転移の魔具、完成していたなんて」
ワクワクしながら計算して、ドキドキしながら図面を引いて、その大きさが図書館を凌ぐと気付いた時に二人でペンを放り投げた記憶がよみがえる。
それがあんな手の中に収まる大きさにまで縮小できているなんて、夢のよう。
「全然だよ。完成させるために迷宮に行ったんだし」
護衛がまさか盗賊に変貌するとは思わなかったが。
とにもかくにも、ちゃんと発動したのは奇跡だ。
と零せば、
「なんて無茶をするのよ」
お小言が飛んでくる。
ただでさえ体力もないのに。
リリィは呆れて怒りすら湧かない。
「他に方法がなかったから……」
やるしかない。
「それで死にかけてれば世話ないわ」
アルトは苦く笑った。
確かにアリシアはこんなはっきりと物事のマイナス面を指摘するような人ではなかった。
だけど、不思議と不快感はない。
真実を見通す目が、彼女はアルトにとって絶対の味方であったアリシアと同じだと告げるから、安心して本音を零す。
「だって、知りたかったんだ」
どうしても。
確かめたくて、いてもたってもいられなかった。
「……変わってないのねぇ」
猪突猛進は相変わらずだ。
感心というよりは諦めのような心地でリリィは呟いた。
知りたがり。
それがアルトを一番よく表した一言だろう。
――ねえねえ、アリシア。なぜ日は昇って、夜には暗くなるんだと思う?
――ええと……星が自転してるから、だったかしら?
そのあとは目を輝かせて自転って!? と詰め寄るアルトを宥めるのが大変だった。
――ねえねえ、アリシア。どうして空は青いんだと思う?
――確か光の波長のせいだったかと……。
波長!? 光に波長だって?
興奮して熱が上がったアルトはその後二週間ほど寝込んだ。
魔術に手を出したのも、そんな知りたがりの一環だ。
どうして? と聞いたら、
「だって、他のことは大抵アリシアがヒントをくれるけど、これだけは違うじゃないか」
そんな風に無邪気に笑ったものだ。
そうしてやっぱり、今日もアルトの疑問は尽きない。
「知りたいんだ。世界を。僕らが生きているこの世界を。ねえ、どうしてこんなに美しいんだろう。草木が、虫が、空が、あらゆるものが僕を惹きつける。過去を知る、いまを知る、そうすると、未来が見える。生命がどんなに緻密に作り上げられているか、君は知ってる? 世界を構成するものが何かを、君は考えたことがある? 連綿と続いた血が進化の過程だとしたら、僕たちはなにになるのだろう」
胸が痛む。
「鳥はどうやって飛んでいるのか。僕らはどうやって歩いているのか。空の先には何が、地面の下には何があるんだろう。知りたい。僕は、知りたいんだよ、アリシア。どうしても、どうしても……!」
リリィは気付かないふりで話しかけた。
善意のように。
「……アルト、話の続きはまたにしましょう?」
「どうして? せっかく会えたのに。まだ話したいことがたくさんあるんだ」
知りたいことが、たくさんあるんだ。
リリィにはそう聞こえた。
「気付いてないかもしれないけど、あなた顔色が悪いままよ」
血の気がないのに、目は潤んでいる。
大熱の前兆だ。
「……ああ、また僕寝込むの? 最近やっと怪我から回復したばかりなのに」
アルトは憂鬱そうに表情を曇らせる。
「会いに来るのが早すぎたのね。もう少し待てばよかったわ」
「そんなに待てなかったから、これでいいよ」
寝ている間はまた思考に沈むだけだから。
「私は帰るから、もう横になって」
「うん」
アルトは素直に肩まで毛布を引き上げた。
すぐに目がとろりと眠気に閉じはじめる。
随分と無理をさせたのかもしれない。
「また来てくれるよね」
「……ええ」
「絶対だよ。約束して」
そう言って、リリィの返事も聞かずに寝入ってしまった。
あるいは答えるのに待たせ過ぎたのかもしれない。
学園でだけの友人だったアルトの家にリリィが訪れるのは初めてだ。
足元に目をやれば、紙と本となんだかわからない収集物が散らばり足の踏み場もない。
その一つを手に取る。
本にはびっしりと書き込み。
ミミズのような、力のない筆跡。
こつんと足先に当たる、採掘してきた化石。
ひらりと舞い落ちた走り書きはきっと、地層への見解。
たくさんの数字と、計算式。
――答えはまだ、書かれていない。
「……あいかわらず」
先ほども口にした言葉を音にしようとして、アリシアは口を閉じた。
嘘だ。
だって、そう言うには、あまりにも。
あまりにも隔絶している。
アリシアが知っている彼はもっと、
「もっと、なんだっていうの……」
余裕があったとでも?
自分が変わったように、アルトも変わった。
知りたいという異常な執着。
生き急ぐような行動。
突き動かされる願望。
その理由を、たぶん自分は知っている。
世界でたった一人の、孤独な研究者。
彼を失えば、世界はきっと何百年と停滞するのだろう。
涙もないのに、リリィは自分の目元をぐいと拭った。
「……早く家人にアルトの体調のことを伝えないと」
ベッドまで本の山を崩さずに辿り着くのには相当苦労した。
帰りも同じだけの苦労をしなければならないらしい。
重いため息をついて、リリィは慎重に部屋を出る。
諸々の手続きを終えて屋敷を後にすると、不思議と繋がれていた鎖から解かれたような開放感があった。
無意識にほっと息を吐く。
どっと押し寄せる欲求。
家が恋しい。
母の顔が見たい。
父の笑い声が聞きたい。
弟妹たちを抱きしめたい。
兄に、手紙を書きたい。
いつの間にか駆け足になっていた。
ぜえぜえと息を切らせて家に駆けこんで来たリリィに母は目を丸くする。
「どうしたんだい一体。友達に会いに行くといっていたのに。……まさか、何かされたんじゃ」
「大丈夫! ただお腹が減っただけ。はやくお母さまの美味しいご飯を食べたかったの!」
みんなで。
温かい食卓を囲んで、小さな失敗談を聞きながら笑うのだ。
それがリリィの幸せだった。
やっと見つけた、小さな幸せ。
研究とか、知識とか、魔術とか。
リリィの生活に入り込む余地のなかった単語が突然割り込んできて、縁を切ったはずの世界がじわじわと侵食してくる。
非現実的で、今にも死にそうな友人のことを忘れたかったと言ったら、薄情だろうか。
「リリィ、明日の予定は?」
「明日はスザンナさんの所で子供たちの面倒を見る予定なんです」
「ああ、あそこ今大変そうだもんな。お前も少し顔を出してやったらどうだ?」
「ううん、そうだね。差し入れでも持って行ってあげようかね。焼き菓子なら片手間に摘まめるだろうし」
「お菓子!? 作るのなら是非お手伝いさせてくださいね、お母さま!」
「もちろん。……だけどあんまり張り切り過ぎないどくれよ」
「おねえちゃん、はりきるとすぐに失敗するもんねー」
「あー、言ったわね! で、でも否定できない!!」
弾けるような笑い声が響く。
家族そろったテーブル。
温かい家庭料理。
和やかな会話。
明るい食卓はリリィの心を抱きしめる。
リリィは幸福で。
幸福で、
――不安になった。
この幸福は、誰かの不幸を糧にしてはいないかと。
絶望のアルト。
かつて、笑いながら彼をそう呼んだ者がいた。
耳に入った瞬間、手を上げていた。
アリシアが激昂したのはそのただ一度。
久々に会った友人は、今も相変わらず「絶望のアルト」のまま。
手紙が届いたのは数日後だった。
兄からかと思ったが、それにしては返事が早すぎる。
「……アルト」
記された家名はアルトの家のもの。
もう体調が回復したのか。
あるいは訪問の約束を履行する催促か。
――だがアルトの筆跡ではない。
恐る恐る封を開ける。
嫌な予感がした。
手紙は用件だけを伝える、ごく短いものだった。
アルトの命が遠からず尽きる。
その前に会いに来たいなら許可をする。
躊躇ったのは一瞬。
家族に言い置いて、家を飛び出した。
いかなければならない。
こうなることは、彼の目を見た時にわかっていたのだ。
屋敷の門で無遠慮に騒ぎ、手紙を見せて許可を貰う。
迷惑そうな顔で中に通されたけど、部屋ではやはり二人にされた。
もう、諦められているのだ。
死ぬことを、覚悟されて。
――いなくなることを、受け入れられている。
悲しかった。
同じことをしようとした自分が言える話ではない。
でも、いざ目の前にすると、そう思う。
「アルト?」
小さく呼びかけた。
長い睫毛が震えている。
リリィの声への反応ではなく、多分苦痛に。
ベッドに腰かけ、汗で額に張り付いた前髪を除けてやった。
「……起きて、アルト」
呼びかける。
寿命を更に縮めるだけとわかっているけど、どうしても聞きたいことがあった。
「……だ れ」
なんだか既視感を覚えた。
ついこの間、こうしてこの人を助けた気がする。
「ありし あ?」
舌ったらずな声がリリィを呼んだ。
訂正はしなかった。
多分、彼にとってリリィはずっとアリシアなのだ。
「ああ、ずっとあいたかったんだよ。やっと会 えた。うれ しいよ」
喉がおかしな音を出す。
ひゅうと、風を切る様な、胸の痛む音。
「おか しい、な。こえが 変だ。きみとたくさん、はな し たい の に」
気力だけ。
気力だけが彼を生かしていた。
瞳孔が細かく揺れる。
熱に浮かされて、意識が現実と夢とを行き来している証拠だ。
水ではなく、油を張ったような目がどろりと光る。
不気味な色に少し怯む。
それをリリィは見たことがあった。
祖父が臨終間際に見せたものと酷似している。
怖い。
それが素直な感情。
彼は、死に往こうとしているのか。
それでも口を開くと出てくるのは、
「ありしあ、アりシア、しりたい。ねえ、せかいは 不思 議ばかり で。アリシあ。秘密を おしえるよ。ぼくは 世界 のほうそく を、ひとつ 見つけ たん、だ」
口から漏れる音は、もうリリィには聞き取れない。
知らない公式でも羅列されているような、別の言語を聞いているような、そんな感覚。
「とても うつくしい。きみに みせて あげたい。――まだ、ひと つ。あと 幾つ、ある ときみは おも う ?」
うわ言だ。
うわ言でも。
それは世界の、扉を開ける鍵。
彼が持っているのだ。
アルトが。
この、死に往く人が。
涙がこぼれた。
リリィは必死に笑う。
きっと意味はある。
自分の選択は、正しかったと。
いつか、胸を張れるだろう。
努力のアリシアも、幸福のリリィも、そうだった。
だから口を開いた。
「アルト、あなたはただ頷けばいい」
私の問いに、答えなくてもいい。
ただ、頷いてさえくれれば、それでいい。
「私には、あなたにあげられるものがある」
死の海を足元に、必死に生にしがみ付く少年に。
たった一つ。
渡せるものが。
「ねえ、アルト、生きたい?」
まだ、生きたい?
もっと、生きたい?
なにを捨てても、生きたい?
この人は、
目の前の彼は、
――きっと、死んではいけない、人なのだ。
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